
これまでとくに難しいと感じてきたのは、学生たち相互の思考を重ねていくようなディスカッションをどうさせるかだ。個人の単発の考えや意見を出させるところまでは授業の雰囲気作りで何とかもっていけるが、ある学生が出した考えや意見につなげるようなかたちで他の学生に発言させることはとても難しいと感じる。
しかし、それは、学生たちが他の学生から出された考えや意見をうまく頭の中でマッピングすることができず、つまり他の学生の考えと自分の考えとの相違、距離を考えることがなかなか難しいからだということがだんだんわかってきた。自分の考えや意見がなにであるかさえうまくまとまらないなか、他の学生が出す考えや意見を自分の中に位置づけよ(→他の学生の思考に自分の思考を重ねるというのはそういうことだ)、というのは、学生には無茶な要望かもしれない。ここをサポートしてやるのは、おそらく授業者の役割だろう。
私はこれまでの演習授業で、学生たちの意見を自分でメモしながら聞き、途中途中議論を整理してまとめるということをしてきた。しかし、それでは上記の問題はなかなか解決されず、結局、単発の意見がその後も無秩序に出されるだけという結果に終わることが多かった。みんなである疑問に対して精一杯頭を使って考えた、とならないのである。議論って難しいね、と学生たちに自己嫌悪させて終わるのが関の山である。
このような状況で思い出すのが、私が学部時代に受けたある授業である。そこでは、150人ほどの大規模授業でディスカッションがおこなわれた。先生の授業方法はあまりに巧みで、それにのせられた学生たちは、150人の学生が集まる中、何の恥じらいもなく次から次へと手を挙げて意見を述べた。ふだんあまり勉強をしていない学生でも、その授業では熱心な学生だった。みんなが同じ問題を一生懸命考えて、ああでもない、こうでもないと考えた。あの先生はすごかったなと何度も思い出す。あんな授業は、数々受けてきた授業の中でも最初で最後だ。二回は出会わない。
しかし、ポイントがあったこともよく覚えている。黒板の使い方だ。学生のときに教授法のことなど考えてはいなかったが、変な黒板の使い方をするなと思ったので、なぜかよく覚えている。それは、学生たちの発言を黒板に逐一書いていくというものだ。そうすることで、前の学生たちが発言したことが黒板上で視覚化され、他の学生はその書かれたものを見ながら思考することができるのだ。さらに発言が出ると、先生はまた書き込んでいく。授業が終わってみると、これまで議論されたことが黒板上一杯に書かれていて、そうか、こういう議論を自分たちはしたのかとその一コマの授業を振り返ることもできる。
いや、こうして書いてみると、そんなのは当たり前ではないかと思われてくる。しかし、私はこんなに印象的な授業を学生時代に経験していたにもかかわらず、自分の授業ではそれがなかなかできなかった。いまは、自分がある程度できるようになっているから、ポイントをより明瞭に説明できるだけであって、渦中はそうではなかった。
学生たちの発言を逐一黒板に書くと言えば、簡単なように聞こえるが、実はこの作業は授業者にとってけっこう難しい。
学生たちはだらだらと、とにかく考えを述べるのに必死である。しかし、黒板では1行程度の短い文章に要約して書かないと、黒板のスペースがいくらあっても足りない。私は要約して、「君が言ったのはこういうことか」と確認するようにしているが、本人自身が自分の言ったことがよくわかっていなかったりして、この要約作業は難航することも多い。しかも、一時間終わった時に全体の議論を振り返られるのが理想だから、原則としては授業が終わるまで消さないように書かなければならない。スペースの使い方に慣れが要る。
もちろん、せっかく発言してくれたのだから、とすべての発言を書きこんでいこうとすることも、黒板のスペースの関係上難しい。いくつかの発言は、「なるほど」とか「これと一緒か」と簡単にまとめて板書せず、次の発言に移るということが当然必要となる。これは、大学時代の上記の先生もしていた。「ああ、自分の発言は書いてもらえなかった」とがっかりしたことを鮮明に覚えている。学生主導型の授業であると言っても、授業者の評価がそうした授業の端々に組み込まれている良い証拠だ。授業者の理解を超える発言は、授業者の整理には位置づかない。授業者の力量が問われている。
さらに、黒板に学生たちの考えを書いていくと言っても、だらだらと発言の順番通りに書いていくのでは学生たちの思考は整理されない。出された意見を授業者がカテゴリー化しながら書かなければならない。たとえば、ある意見が以前の議論に関連する場合には、できるだけその近くに書き込む。どこに書くかを決めるのは授業者である。そして、その関連の意味を学生に問いながら、矢印や丸で囲んだりすると、学生たちの思考は展開していく。
授業が終わったら、私は黒板に書いたことをノートに写すようにしている。次週の授業に向けての自分のメモ、記録でもあるし、それを印刷して配布すれば、学生たちには前週の議論の確認にもなる。
言うのは簡単だが、授業者はけっこう頭を使う。私の場合で言えば、講義形式の授業の2,3倍は疲れる。寝不足なんかで教室に行ったら、学生たちの意見が自分の頭のなかで位置づかないで黒板にうまく整理できない、なんてことが何度もあった。
こういう黒板の使い方について研究している人がいないかと論文を探していたら、近いものが見つかった(小林, 2001,2002)。教師と学生の共同構成としての黒板の使い方というものだ。なるほど、たしかに、黒板で書かれたものは学生の発言であるが、それを構造化したり意味づけたりするのは授業者の仕事だ。その構造化、意味づけの過程には学生への問いかけや確認もある。まさに教師と学生との共同構成で仕上がった作品だ。
参考文献
小林敬一 (2001). 黒板を介した評価の共同構成-中学校における理科の授業を例にして-. 日本教育心理学会総会発表論文集, 43, 171.
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