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溝上慎一のホームページ
(記事・書籍等)【書籍】ボンウェル, C.・エイソン, J. (著) 高橋悟 (監訳) (2017). 最初に読みたいアクティブラーニングの本 海文堂
溝上のコメント
- 日常用語であったアクティブラーニング(active learning)を、最初に概念化したといわれるBonwell & Eison(1991)の著書を翻訳。アクティブラーニング論の古典として、意欲の高い方は是非読んでもらいたい。
- 下記は私が印象に残った部分の抜粋である。
抜粋(下線は溝上による)
【はしがき】
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講義中心の授業が、学生たちに学んだことを維持し応用する力をつけることのない、表層的な学びを奨励しているという調査結果が増えている。同時に、学習者中心のアプローチが、従来とは異なる学びを生みだし、学習技能を伸ばし、学習者として自律的かつ自立的であるように学生たちを動かしているという証拠も大きくなってきている。
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学習者中心のアプローチのより広範な使用にかかわらず、授業における指導全体はほとんど教師中心であり続けていること、大学教員たちは未だに学生のために学習に関する大半の判断を下し、授業内容は未だに学習指導の世界を中心とし、
教員は本来学生が自身で行うべき学習作業をやりすぎていること、
学生たちは自分たちの、あるいは仲間の取り組みを評価(評定ではない)することを定期的に奨励されていないということである。
【あとがき】
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日本におけるアクティブラーニングは、平成24年の質的転換答申において「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。」と解説され、この分野のオピニオンリーダーである京都大学の溝上慎一(2014)によって「一方的な知識伝達型講義を聴くという(受動的)学習を乗り越える意味での、あらゆる能動的な学習のこと。能動的な学習には、書く・話す・発表するなどの活動への関与と、そこで生じる認知プロセスの外化を伴う。」と定義されている。
この文科省の捉え方に沿えば、結局、アクティブラーニングは汎用的能力養成の手段である。一方、学習者中心の教育は、汎用的能力の育成を超えた「人間」の育成を目的とする。質的転換答申では「認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた」と断っていても、最近の文科省では
「主体的で対話的な深い学び」実現へのアプローチがアクティブラーニングであり、授業内容の理解・習得に力点は移ってきている。アクティブラーニング型の授業において、「主体的で対話的な深い学び」が促されることは結構なことであるが、促す側の教師の在り方(したがって教師が行う促しの度合い・程度)には注意が向いていないのが現状ではないか。
学習者自身の在り方を問うのか、学習者が行う学習の質を問うのか、分けて考えることに無理があることは承知しつつ、ワイマーは深い学びがどうかより、自立(自律)的であるかどうかに関心を寄せている。深い学びは大切だが、深い学びを営む主体としての学習者にどう対峙するかという課題に、大学教員として向き合うとき、学習者中心という言葉をワイマーは選びとったと言えよう。
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ワイマーは実に様々な分野の実践研究を渉猟し、いかなる分野においても学習者中心の授業は可能であると確信している。その実践事例の多くは、アクティブラーニングの手法・技法として扱いうるものではあるが、彼女はそうした手法の解説を意図していない。繰り返しになるが、たとえば溝上がいう「一方的な知識伝達型講義を聴くという(受動的)学習を乗り越える意味での、あらゆる能動的な学習」としてアクティブラーニングを行う主体をどう育てるか、という育てる側の教育観が、大学における授業の実際を決めていく。
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質的転換答申から5年が経つ。大学教育再生加速プログラムに象徴される文科省の旗振りにもかかわらず、大学教育におけるアクティブラーニングの普及は未だ道半ばかもしれない。なぜならそれは、手法・技法という次元を超えた、教員の教育観・学生観の変容を伴う難路を行くことを、教員に求めることになるからである。高校4年生、中学7年生、あるいは小学13年生と揶揄される新入生が増え続ける大学という教育現場に、学習者中心の教育を指向した授業実践は難儀である。ワイマーは、アメリカの教員たちとその苦労を分かち合い、励まし合う中で本書を編み直した。形ばかりのアクティブラーニングを乗り越え、学習者中心の授業づくりを重ねていく日本の教員にもまた、ワイマーの励ましが本書を通じて届くことを願っている。