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(講話)書評 小針誠著『アクティブラーニング-学校教育の理想と現実-』(講談社現代新書, 2018)

溝上慎一(桐蔭学園)

*本書評の一部は、『IDE(現代の高等教育)』2019年1月号 に掲載されています。

 

はじめに

本書は、アクティブラーニングや主体的・対話的で深い学びの施策的な導入、経緯をふまえた上で、アクティブラーニングあるいはそれに類する学習が、これまでの学校教育史上でどのように展開してきたかを、「近代教育史」「戦後教育史」「平成教育史」と3つの時代区分のもと関連づけ整理し、最後に、歴史的な視野からアクティブラーニングの実践的な課題について論じたものである。

アクティブラーニングや主体的・対話的で深い学び、それを取り巻く資質・能力やカリキュラム・マネジメントなど、施策文書や関連文献を網羅的に、丁寧にレビューしている。このテーマは、すでに論や考え、批判などがある程度は出そろい、平たく言えば「本気でするかしないか」を、組織的にも個人的にも意思決定していく段階にある。その意味において、これまでの議論を整理したい関係者には有益な本である。立場の違いを越えて、手元に置いておくべき書籍として、私は一読をお勧めしたいと思う。

さて、評の前に評者の立場をあらかじめ示しておかねばならない。というのも、評者はアクティブラーニングを前線で説き、指導する者である。その評者が本書を読み、そしてアクティブラーニングの推進や施策に対して「毒薬」(p.256)とまで述べる著者に対して、「はい、そうですね」などと言うはずがない。

評者にとって、著者が指摘するような新自由主義や文科省施策の流れなどは、まったくもって後付けである。評者は、教育学者として、心理学者として、授業を見て、生徒学生の学びと成長を見て、教育を受けた卒業後の大人の姿を見て、調査結果や各種の資料・データを見て、大学を含めた今の学校教育は大いに変革すべきだと考えてきた。とくに高等学校・大学においては、講義一辺倒の授業を脱却するところから始めなければならない、そのためのアクティブラーニングの導入・推進だ、そう考えてきた。私がこのテーマで論じ始めたのは2006年であり、政治や文科省施策の流れなどまったく関係がない。

評者は、今の文科省施策を支持する立場であることも示しておく。しかし、それは文科省が先にあってのことではない。学術的、実践的にアクティブラーニングの推進は必要不可欠であり、もし評者が文科省の役人であったとしても、やはり同じ施策を推進していただろうと思うのである。

このような立場の私が、ほぼ真逆の立場にある本書を評するのであるから、辛口にならざるを得ないのは必然である。言葉が過ぎるところは平にご容赦願いたい。

なお、以下では原則として「アクティブラーニング」とのみ表記していくが、それには新・学習指導要領で示された「主体的・対話的で深い学び」も含むものと理解してほしい。両者は同じものではないが、この書評ではその相違は重要ではない。

 

 

第1節 総評

さまざまな理解不足をもとに、ただ国主導の施策を辛辣に批判するだけの著書。新しい実践的提案もない。

 

著者は、アクティブラーニングに関する幻想を次の5点にまとめ、アクティブラーニングを国策として推進することを辛辣に批判する。

 

著者が批判するとおり、ただアクティブラーニングを導入するだけで、先行き不透明な未来社会を生きる子どもを育てることにならないだろう(幻想1)。子どもが主体的・能動的に学ぶようになることもないだろう(幻想2)。新しい学力や生きる力を高めることもないだろう(幻想3)。研修や指導をすればいいというものでもない(幻想4)。その通りである。だから何だというのだ。

アクティブラーニングであれ主体的・対話的で深い学びであれ、それらがどのように定義されるものであれ、この抽象的な水準で提起される概念が、個別の実践で具現化される一つか二つの「型」や「画一化」した教授方法に定まると理解する方がおかしい。ある型や画一化した授業実践が横行しているといっても、それは現場の教師が、批判的に自身の実践とすりあわせたり落とし込んだりせず、安易に型として受け取り実践しているからである。批判すべきは、現場の教師のその姿勢にあるのではないか。安易な実践をしている教師の授業ばかりを見て、一般化するなといいたい。著者自身、「マニュアルの落とし穴や「型」への依存から抜け出すためには、授業実践案の紹介やマニュアルなどの「見方」を大きく変え、批判的に読み解いていかなくてはなりません」(p.221)と述べているではないか。中井俊樹編著(2015)の「アクティブラーニングは教育の一つの手段であり、効果的に活用できるかどうかは教員次第なのです」を紹介しているではないか。その通りである。

型や画一化したアクティブラーニングへの批判の理由として、著者は、佐藤学氏の指摘する授業の不確実性を挙げる。授業はライブである。ある授業で効果的であった教授法や課題が、別の授業で、新しい文脈で有効であるとは限らない。その対応として、著者は「紹介例の授業の方法や段取りをそのまま実行するのではなく、その授業がいかにして成立していたか、その「条件」にも注意を払いつつ、参照する必要があります」(p.221)と述べる。その通りである。そう理解しているなら、向けられるべき批判の的は、ますます、実践例を型として受け取る現場教師の無批判的な姿勢ではないのか。

「型」としての実践例の提供が悪いわけではない。文科省は世の中からの批判への対応として「型」ではないと但し書きをつけたが、ある個別の型から入ることなしに、抽象的に「条件」などを吟味するくらいのことで、自身が経験もしてこなかった、概念さえ十分に理解できていない新しい授業を創り出していくことは不可能である。それこそ「幻想」である。

茶道や武道などの伝統諸技芸の中で「守破離」といってきたではないか。修行は、師匠の型を「守る」ところから始まる。その後、その型を批判的に研究することで、自身に合った型を創ることで既存の型を「破る」。最後は、師匠の型、自身が創り出した型をふまえて、型から自由になり、型から「離れ」て自在になる。これが守破離の思想である。授業づくりも同じではないのか。

さて、本書を貫く著者の批判の的は、徹底的に文科省である(幻想5)。国主導でアクティブラーニングを強制しては弊害やリスクのほうが大きいと、その弊害やリスクをあらゆる角度から網羅的に示す。その一つ一つを読んでまったく違うとも思わないが、では、それをふまえて著者は何を提案しているのだろうか、とそういう視点で読み直すと、残念ながら著者は何も提案していないことがわかる。ただ、国主導の文科省施策を批判するだけである。

歴史を顧みて、アクティブラーニングの国家主導は、学校、教師、子どもの「自由」「個性」「ゆとり」「自主性」を奪うものであり、主体的で対話的な個性的学びを育てるどころか、逆に、戦時中の国家全体主義のような、国や社会に盲従する主体性を喪失させた子どもを育てることになる、というのがその根拠である。

無批判的にアクティブラーニングの実践例を受け取り、型や画一化した授業をおこなう教師の授業であれば、そうなるだろう。しかし、この前提が間違っているのは、すでに述べたとおりである。しかも、戦前の全体主義をもってきて、思想の統制のような批判をする。国主導の政策がそれと同じレベルのものなのかと問いたい。

著者は「子どもたちの学び方を決めるのは、政治家でも行政でも学者でもありません。教育や学びの主人公は、学校現場の教師と子どもたち自身であ」(pp.258-259)ると述べる。その通りである。主人公は学校現場の教師と子どもであり、その学び方を具体的に決めていくのは彼らである。

しかし、その「学び方」のフレームまで現場の教師が考えるものなのか。考えられるものなのか。「先行き不透明な未来社会を生きる子ども」を育てるための教育や学習を、仕事・社会で起こっていることをふまえて、教師はゼロベースで「学び方」のフレームを考えていくことができるのか。アクティブラーニングであり主体的・対話的で深い学びは、「学び方」のフレームである。中教審答申や学習指導要領はあくまでフレームとしてのガイドラインである。

国でなくとも地方自治体の教育委員会でもいいのだが、外からフレームが提供されることもなく、一教師や一学校の現場のフレームだけで、子どもたちを未来に繋ぐ教育実践を創り出していくことは不可能である。実際、国や学者がこれだけ未来を繋げて提示している多くのフレームに拒絶反応を示し、自身の旧時代の経験や新しいものへ開かれていない態度を示している現場の教師がどれほど多いことか。大学入試が変わらないと私たちは変わりません、と子どもたちの未来も考えず、予備校化した高校教育を合理化したのも学校現場ではなかったのか。

大学では、2017年に学修成果の可視化、内部質保証をにらんで、3つの方針の策定が課せられた。とくにディロマポリシー(DP)という学位授与の要件は、学位を授与する学士課程教育の教育目標に相当するものである。カリキュラムや授業は、このDPに基づいて運用される。目標に準拠した教育の観点から見れば、まっとうな構造を目指す作業である。

この作業の結果、全国のほぼ例外なくすべての大学・学部は、自身の4年間(6年間)の教育目標(DP)として、問題解決力や探究、コミュニケーション・リーダーシップ力、異文化理解など、アクティブラーニングなしでは育てられそうにもない資質・能力を掲げてきた。三つの方針の策定を課したのは国であり文科省であったが、大学教育を通してこういう学生を育てます、と目標設定したのは大学や学部自身であった。フレームは外(文科省)から与えられたが、その中身は現場が創り出したのである。これでいいのではないのか。

国はコミュニケーション力を入れろなどと強制したわけではないにもかかわらず、必要だと思って入れたのは、大学や学部自身であった。どの大学・学部も、教養や専門の知識を授けるだけの大学教育でいいなどとは考えなかった。その背後には、学生が大学を卒業後必要とする資質・能力の育成という考え方、すなわち、学校から仕事・社会へのトランジションの考え方があったからである。

現場(大学や学部)からトランジションを力強く促すこのようなフレームが自発的に出されていれば、国からのこのようなフレーム提供の作業は必要なかったのである。1991年の大学設置基準の大綱化を促した答申(大学審議会『大学教育の改善について』1991年2月8日)以来、講義一辺倒の授業脱却を提案しながら、30年近く実現してこなかった大学の負の実績があったからこその作業だったのである。そういう現場の固着した教育状況を、大学人である著者が知らないはずはないだろう。アクティブラーニングに関する問題は、高等学校、大学まで含めた学校教育全体の問題である。

 

 

第2節 その他の問題

(1)2030年社会に対する言及がない

著者は学習指導要領改訂やアクティブラーニング施策のターゲットイヤーが、まずは2030年社会であることを知っているのだろうか。2030年まであと12年。学校はそれまでに2030年社会に対応する教育機関として転換できるのか。

これまでの知識基盤社会や社会の情報化・グローバル化をふまえて、新たにAI(人工知能)や人口減少、さらには人生100年時代という大きな問題が加わってきている。すでに言い尽くされているが、これまでには見られなかった問題だらけの時代である。だから、探究的な学習や問題解決がうるさく教育課程や学習方法の中に入ってきているのである。

先般、2040年以降の社会を「将来構想」という形で議論してきた中教審のグランドデザイン答申が出された(中央教育審議会『2040年に向けた高等教育のグランドデザイン(答申)』2018年11月26日)。子どもの数が、学校数がどんどん減り、 2050年あたりの生産年齢人口は終戦直後の5,000万人まで落ち込むと予想されている。ここが、議論の最終ターゲットである。今はまだその手前のところでの施策である。

2018年現在13歳(中学1年生)が、2030年には25歳になる。大卒者で見れば、社会人として初期キャリアの時期にある。この子どもたちが2030年以降の社会を力強く生きていけるかの視野や展望が、少なくともこの著書の中にはまったくない。2030年社会に向けた教育施策にブレーキをかける論ばかりである。

否、 2030年社会に向けた著者の方策が示されているならいいのである。それには真摯に耳を傾け参考にしたいと思う。しかし、そのようなシミュレーションをし尽くした上でのアクティブラーニング論であり、文科省施策であることを、知っているのか、と問いたい。こんな問題があります、こんな批判があります、とまとめるだけでは済まされない。

 

(2)著者の推論形式で未来を導けるのか?

明治以来の近代学校社会のアクティブラーニングに類するものの経緯をふまえて、「歴史から何を学ぶか」という節で、著者は考えをまとめていく(p.206)。

これまでの歴史は、未来の日本社会や教育を考えていく上で必要な基礎知識である。しかし未来は、必ずしも過去から演繹的に導き出せるわけではない。とくに2030年社会は、私たちのこれまでの経験が通用しないことだらけの社会である。著者の推論形式で未来を果たして導けるのか。

データが十分にないまま文科省施策が進むと批判をする(p.252)。しかし、データが十分に出てからでは遅いという発想はないのか。まさか、問題が出てきたときに、台風や地震のときのように「政府が予想をして十分に対策を練ってこなかったことが問題だ」などと批判するのではないと信じたいが、少なくともデータがまったくないわけではなく、私が持っているデータからでも、現在の学校教育の状況で満足できる状態とは、とてもではないが、いえない。限られたデータの中から未来を予測することが今求められており、予測した結果が私の考えであり、文科省施策である。

「私たちは理想ばかりを追い求め、語るだけでなく、もう一度立ち止まって、そもそも学力の三要素、アクティブラーニング、主体的・対話的で深い学びの視点がほんとうに好ましいのか、学習指導要領の是非についても、あらためて考えるべき地点に来ています」(p.225)という考えのもと、本書は書かれている。しかし、その「あらためて考え」た本書を読んで、何か新しい未来に向けての方策が提案されたと感じる部分はない。「見通しがじゅうぶんではないまま進められた文部科学省関連の施策です。私たちは「ゆとり教育」やそれ以前の歴史の総括も不十分なまま、アクティブラーニングや主体的・対話的で深い学びを受け入れることになるのでしょうか」(p.226)と著者は述べるが、むしろ話は逆で、見通しをこれだけ出して「お腹いっぱい」の施策である。見通しが十分でないとの批判は適切な批判ではない。

「歴史の総括」が、政府の中で、著者が期待するほどになされなかったことは十分にあり得ることである。しかし、この著書を読んで「歴史の総括」がなされたとして、「だから何が言いたいのだ」と言いたい気持ちになるのは正直なところである。未来に向けた「歴史の総括」がなされていないと感じる。著者には釈迦に説法だが、歴史の総括にもフレーム問題が避けられない。著者にとって都合のいい「総括」になっていると感じざるを得ない。

教育とは、どんなにきれい事をいっても、あるイデオロギーを教え込むことを避けられない。その代表的概念はヒドゥンカリキュラムであろう。私たちは、自覚しようがしまいが、見えざる教育的価値や文化を子どもたちにすり込んでいるのである。明治初期には、椅子に座る概念さえ持たなかった子どもに、椅子に座って授業を受けるという「学び方」をすり込んできたではないか。学校現場の教師や子どもが「学び方」のフレームを決めてきたわけではないのである。

 

(3)批判が横に行きすぎる

たとえば、「問われる教師の力量」(p.230)という節がある。教師の力量がアクティブラーニングを促すレベルにない、といったことを問題として指摘している。ここまではいい。それは、教師の研修を重ねていくしかなく、研修して改善されなければ、研修の仕方や方法を吟味していくしかない。私であればそう続けていく。

しかし著者は、研修すると「教師の多忙化が促進される」(p.230)、しかも「教師への講習や研修は効果があるのか」(p.237)などと話をどんどん横にずらしていく。では、研修ではない方法を提案するのかと読み進めてみるが、結局は何も示されないで議論は終わる。アクティブラーニングを推進する教師を育てるために研修が「非」だと主張するならば、代わりの方策を提案すべきである。第三者的な立場での無責任な批判は許されない。

それにしても、このまとめ方は、率直にいって感心しない。研修の是非は、アクティブラーニング論とまったく関係がない。外化としてのアクティブラーニングをふまえて、「発言しない・参加しない自由」を研修は奪うと議論するが、それはアクティブラーニングに関する研修に限ったことではない。あらゆる研修のテーマにおいて、このことはあてはまる。

 

(4)仕事・社会へのトランジションを見ていない

著者は仕事・社会で起こっていることを実際に見ていない。仕事・社会で起こっていることに対するリアリティのある言及が、本書にはまったく見られないからである。これは文科省施策の展開を批判的に読み解く上で致命的な問題点である。しかも、仕事・社会で起こっていることをほとんど理解していない学校教育関係者の、アクティブラーニング施策に対する表面的な批判をくみ取って、代弁もしている。

「大学におけるアクティブラーニングは、教育界の論理やその要請というよりも、経済界からの強い要請をうけて、即戦力に近い「人材」養成の観点から、主張、導入されるようになった」(p.31)などと、外からの要請に無責任な見解を示すことにもなる。もちろん、経済界からの要請はあった。しかし、アクティブラーニングは大学教育の現場から起こってきたものでもある。それは、2012年の質的転換答申の前にまとめられた、河合塾編『アクティブラーニングでなぜ学生が成長するのか-経済系・工学系の全国大学調査からみえてきたこと-』(東信堂, 2011年)を読めばわかることである。

評者の言葉でいえば、昨今の学校教育改革は学校から仕事・社会へのトランジション改革である。文科省施策では、それを資質・能力の育成と表現している。仕事・社会に対応する学校教育の社会的機能を見直す改革である。この文脈を外して、しかも2030年社会に対する見通しも外し、本書から打ち出される知見がいかほど役に立つというのか。
 このことが端的に表れているのは、コミュニケーション力の弱い生徒学生に対する次のような著者の見方である。

「子どもたちの個性や想像力は将来、新商品や新ビジネスを開発または展開する能力として、書く、話す、発表するといった能力は情報の編集やプレゼンテーションなど、昨今さかんに求められている「コミュニケーション力」として発揮されます。ところが、その力をもたない個人は、それを自己責任に帰せられ、不安定な社会のなかで「弱い個人」として切り捨てられてしまう可能性があります。つまり、アクティブラーニングは新自由主義の思想や理念と都合良く結びついてしまう危険性が非常に高いのです」(pp.217-218)。

ここでは、「ところが~」の前と後に問題がある。2点指摘する。

第1の問題は、「ところが~」の前に関して、著者は、社会からコミュニケーション力が求められていることを学校教育として問題とすべきだと思っているのか、いないのか、ということである。おそらく思っていないのだろう。それは、「(アクティブラーニングをどんなにうまくデザインしても)授業中にだけ通用する「対話のルール」を設けても、教師の力量をもってしても、如何ともしがたい児童・生徒・学生間の人間関係や本人の性格上の問題があらかじめ存在していることを認識しておく必要があります」(p.211)と述べられるように、アクティブラーニングが資質・能力を育てるものであることが理解されていないからである。

しかも、「(人間関係面で積極的で開放的な態度をもた)ない学生にとっては、アクティブラーニング自体が苦痛で、効果もじゅうぶんではない可能性があります」(p.211)などと論じるところを見ると、どうも著者は、アクティブラーニングが苦痛な学生が、それでも卒業後の仕事・社会で力強く生きていけるのかどうかを、まったく考えていないのである。だから、学力の三要素の意義もわからず、「(学力の三要素等の)是非についても、あらためて考えるべき地点に来ています」(p.225)などというのである。そんなことは何度も何度も考えた上での現行施策であることを著者は知らないのである。

ちなみに、評者も政府も、トランジションの先を見て、コミュニケーション力が弱いことを問題と見なし、学校教育の課題にしなければならないと考えてきたからこそ、アクティブラーニングをはじめ、さまざまな提案をしている。

もちろん、コミュニケーション力の弱い人が職に就けないわけではない。選ばなければどこか見つかるだろう。しかし、人は職を選ぶのである。この問題を学校教師はもっと考えなければならない。

有名大学の学生でさえ、コミュニケーション力が弱いと、希望する企業から二次面接以降で落とされてくる現実がある。この人手不足の超売り手労働市場においてさえ、である。

コミュニケーション力が弱いだけで、単純労働やマニュアルワーク、それに近い仕事に就くしかない、といった乱暴な見方を出すつもりはない。コミュニケーション力が弱いと、労働賃金や非正規雇用の問題がついてまわるといった脅し文句も好きではない。しかし、AIの発展や問題解決が次々と求められる仕事・社会において、コミュニケーション力が弱いことは明らかにマイナス要因となる。学校教育で育てようとしたが、育たなかった、なら話はわかるが、育てようとすること自体にブレーキをかける著者の論は正直解せない。

もう一つの問題は、「ところが~」の後である。たしかに、コミュニケーション力の弱い個人が「弱い個人」として切り捨てられるという問題がある。しかし、そんなことは新自由主義の思想や理念などと大上段に振りかぶらずとも、すでに就活でコミュニケーション力が採用規準の一つとなっていて、採用の可否に繋がっている身近な現実を見るだけで十分ではないか。「可能性」ではなく、すでに今起こっている現実ではないのか。

採用された後の職場の中で、コミュニケーション力の弱い人がまったく仕事をできず、職場から追われるようなことは、深刻に起こっていない、というデータも出てきている。しかし、採用時には大きな要因となり、職場の昇進や転職のことまで考えれば、やはりコミュニケーション力は「より」でいいのだが、高いほうがいい。話すことが苦手な子ども、声の小さい子どもが、どうすれば少しでも自分の考えを他者に伝えられるようになるかということを、テストの点数に一喜一憂することと同じレベルで、学校教育の課題としなければならない。評者であればそう考える。著者はどうなのか。

実は、仕事・社会が「弱い個人」を切り捨てているだけではなく、学校の教師も、発達の早い段階から、そういう子どもを「切り捨てている」という事実がある。著者はそれを知っているか。いわゆる練り上げ式と呼ばれる発問ベースの授業で、発言する子どもの思考を拾って学習が進められていく小学校の一斉授業は、発言しない、できない子どもの思考を「切り捨てて」学習を進める構造を持っていたのである。このような授業構造は、発言しない子どもの資質・能力を考えるようになって、そのためのアクティブラーニングを推進するようになって、ようやく見えてきたものである。もちろん、練り上げ式の授業自体がダメだということではない。そういう特徴も実は兼ね備えるものだったという理解が、ここでは重要である。

中学校や高等学校になれば、「弱い個人」はますます置いていかれる。講義一辺倒の授業であれば、「弱い個人」は見えにくく、教師の話を熱心に聞いていたりもするから、まず問題にならなかった。しかしグループワークをさせると、「弱い個人」は、議論ができない、声が小さいなどとすぐさま可視化される。そのような生徒を見て、教師は「彼はおとなしい子だからグループワークは無理です。でも成績はいいから良い高校や大学に進学できますよ」「おとなしい性格も一個人の特徴として認めてあげたい」などと合理化して見逃している。仕事・社会の前に、学校の教師こそが「切り捨てている」ともいえるのである。

 コミュニケーション力をはじめとする資質・能力は、発達の早い段階を担う小学校レベルから、子どもが傷つかないレベルで辛抱強く育てていかなければならない。政府や評者がこれだけ資質・能力の育成を謳い、アクティブラーニングを求め、それを学校現場が推進しても、18歳あたりが一つの臨界点になるという発達の限界を示すデータが出ている。大学教育の4年間ではこれらの資質・能力は伸びにくいというデータも出てきている。高校生までに基礎的な資質・能力を可能な限り育てたいという教育的・発達的見方を打ち出してこその、義務教育を含めた学習指導要領改訂、学校教育改革である。

 

(5)主体性の理解が間違っている

「主体的(な学び)」は、自分の意思で好きなことをするといった意味の言葉ではない。「主体的」とは、課題(客体)に対して行為者(主体)が優勢に関わっている、いわゆる「前のめり」の状態を指す言葉である。「能動的」も同じく、課題(客体)へ関わる主体優位の状態を指す言葉である。

この理解に従えば、著者が「能動的な参加ということは、学習者自らが積極的に参加し・・・中略・・・ないかぎりは、・・・はじまりません。しかし、そうであるならば、「参加しない自由」が担保されなければならないのではないでしょうか。仮に参加しない自由が認められないとすれば、それは他者からの「学びの強制」であって、字面通りに解釈すれば、主体的な学び(アクティブラーニング)にならないばかりか、個人の内面に対する過剰な介入になってしまいます」(p.239)と説くことは、大きな誤解である。

そもそも、学校教育の学習においては、目標や課題のほとんどは外(教師)から与えられるものである。「個人の内面に対する過剰な介入」を徹底的にしているのが、学校教育だともいえる。その意味では、興味を持てば参加し、興味を持てなければ参加しないなどということを学校教育の前提にしてはいけない。それでは、学校教育はすぐさま破綻である。

著者が別の箇所で紹介する内発的動機づけという概念も、課題に対する「前のめり」の関わりを問題としたものであって、課題に関わりたくなかったら、参加しなくてもいいなどということを説くものではない。それは、内発的動機づけの提唱者自身が後に、自己決定理論の一つである有機的統合理論を提唱したことから明らかである。有機的統合理論とは、外発的に与えられた課題に対しても、その価値を認めたり、自己の他の側面との有機的な統合のもと自己調整をしたりして(たとえば、医者になるためには嫌いな教科もできるようにならなければならない、など)、学習が「前のめり」となることを説いたものである。

はじめは、嫌々ながら関わっていた課題が、作業が進むにつれておもしろくなってきて、生徒は「前のめり」になっていくという関わりの変化もある。課題に関わる初発のフレームだけで参加を決めていたのでは、フレームの固着化が生じ、学習は成り立たず発展もしない。「協同(協働)学習の試みは、個の自立よりもむしろ集団への強制的な同調や埋没を促すだけの実践に陥りかねない」(p.240)などというのは、学校教育の前提を無視した暴論である。学校教育の外で議論してくれといいたい。

 

言いたいことを述べた。反論をお待ちしている。

 

 

 

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