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私は、アクティブラーニングを、
「一方向的な知識伝達型講義を聴くという(受動的)学習を乗り越える意味での、あらゆる能動的な学習のこと。能動的な学習には、書く・話す・発表するなどの活動への関与と、そこで生じる認知プロセスの外化を伴う。」
と定義してきた。書く・話す・発表するなどの「活動」への関与と、認知プロセスの「外化」がここでのポイントである(「(用語集)内化・外化」を参照)。この定義は、1990年代初頭より米国の大学教育でなされてきた定義を若干修正して、日本に提唱してきたものである。それは、教師から学生への一方通行的で、知識伝達型の講義における“聞く”という受動的な学習を脱却することを目指して、その受動的な学習と相対する「能動的」な学習を措定したものであった(「(理論)アクティブラーニング論の背景」を参照)。
いわゆるチョーク&トークの講義一辺倒の授業を脱却することが切実に求められたのは、まず大学教育であった。はじめは、大衆化、ユニバーサル化する大学において、講義を聞けなくなってきた学生を講義に参加させるため、やがては学生の学校から仕事・社会へのトランジション(移行)(「(理論)学校から仕事・社会へのトランジションとは」を参照)をにらんで、今でいうところの資質・能力(思考力・判断力・表現力等)をも育てるため、アクティブラーニングは導入された。2012年のいわゆる質的転換答申で、大学教育に「アクティブ・ラーニング」が施策用語として導入されたのも、講義一辺倒の授業を脱却する意味においてであった。以下の定義と、私の上記の定義を読み比べるとよくわかる。
「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。」
大学教育では、今なお質的転換答申や私の定義等を参照しながら、アクティブラーニングの改革が進められている。
現行の学習指導要領改訂まで、教育改革の主なターゲットは義務教育としての小学校・中学校であった。高等学校は、教育改革にメスが入らない最後の砦だといわれていた。現行の学習指導要領で謳った言語活動の充実は、当然のことながら高等学校をも対象とするものであった。学習指導要領には高等学校版もある。しかし、言語活動を導入した高等学校はきわめて少なかった。講義一辺倒、チョーク&トークの授業形態は、大学のみならず高等学校のものでもあった。10年前に高等学校が言語活動をある程度導入していれば、近年のアクティブラーニング改革はもっとスムースに移行できたに違いなかった。
実は言語活動(「(用語集)言語活動の充実」を参照)とアクティブラーニングの内実はほぼ同じといっても過言ではない。主体的・対話的で深い学びも同様である。私は、この学習指導要領改訂の動きが示された2014年以前には、高等学校の教員に「大学で進められているアクティブラーニングは、高等学校では言語活動に相当します」と説いていたのである。それぞれが主唱する前提や目指すポイントで異なる部分はあっても、後で示そうとしている「外化」という学習論のポイントにおいてはほぼ同じものを説いている。手を変え品を変え同じ外化を説いていると私には見える。どのような角度から教育を見ても、外化の観点は自ずと出てくる避けられない改革の観点である。
2014年末に学習指導要領を改訂して初等中等教育にもアクティブラーニングを拡げようとした基本的な動きは、最後の砦であった高等学校の教育にメスを入れるものであった。それは、大学教育、大学入試、高校教育の三位一体の高大接続改革の延長線上でなされたことからもわかる。小学校、中学校までアクティブラーニング論を下ろさなければならないとまでは、私は考えていなかったが、少なくとも高校2年生くらいまでの間に大学や仕事・社会で必要とされる資質・能力のかなりの部分が出来上がる発達事情を鑑みて、高校教育の改革、高大接続は必然であった。アクティブラーニングだけが求められたわけではないが、少なくとも大学受験にあまりに傾斜する高等学校のチョーク&トークの授業は、アクティブラーニングによって変えられなければならなかった。
ところが、学習指導要領を改訂するとなると、ついてくるのが小学校・中学校である。高等学校だけの学習指導要領を改訂するわけにはいかない。言語活動の充実施策で、アクティブラーニングに相当する活動をすでに推進している小学校・中学校にも「アクティブラーニングを」という話になる。これまでの言語活動の充実施策と何が違うのかという疑問は当然出てくる。しかも、大学教育で背景となった講義一辺倒の脱却を謳うと、小学校で講義一辺倒の授業などあり得ないという話になり、話が錯綜していく。中央教育審議会で学習指導要領改訂を審議する主な委員は、幼稚園や義務教育の専門家、教員、関係者ばかりで、高等学校の事情に通じる者は少なかった。委員であった高等学校の教員でさえ、高大接続や大学の事情には通じていなかった。国家施策の限界を見た瞬間でもあった。
義務教育を基礎としすぎた審議の結果は、承知のとおり、「主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニングの視点)」であった。「文部科学大臣告示」という形式で出される行政文書としての学習指導要領では、「アクティブ・ラーニング」は削除されたが、答申(『幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)』(2016年12月21日)までは残された。答申で示すのも難しくなってきたとはやくから聞かされていたが、ここは文部科学省の事務方が苦労を重ねて残したとも聞く。そして、新学習指導要領では削除されたが、2017年6月に出た『学習指導要領・解説』には「アクティブ・ラーニングの視点」は記載が戻されている。
アクティブラーニングであろうと言語活動であろうと、主体的・対話的で深い学びであろうと、用語は何でもいい。しかし、絶対外せないポイントは「外化」である(「(用語集)内化・外化」を参照)。外化は、このすべての用語の基調となるものであり、新しい教育の転換のポイントとなるものである。
外化は、理解すること、考えること、感じること等を、書く・話す・発表する等の活動を通して外に出すことである。「活動あって学びなし」や「はいまわるアクティブラーニング」などと揶揄されたような、活動だけを導入すればいいといったものではない。活動を通して外化する学びのプロセスに、さまざまに育てたい、育てなければならないポイントが埋め込まれている。
教師の話を聞いて理解をしているように見えても、それを言葉にして外化する、他者に伝えるとなると、うまくできない児童生徒が少なくない。これは理解しているといえる状態だろうか。真正なアセスメントや逆向き設計で有名なマクタイらは、理解を「説明」「解釈」「活用」「パースペクティブ」「共感」「自己知識」の側面から総合的に捉えた。この観点から見て、言葉にして外化できない、他者に伝えられない児童生徒は、「説明」ができておらず、結果として理解しているとはいえない状態である。自分の言葉で外化するという活動は、理解を確認する基本的活動である。
「説明」は、ワークシートなどに自分の言葉で“書く”活動としてなされることもあるが、他者や集団に“話す”“発表する”という活動としてなされることもある。“書く”はこれまでのあらゆる学校段階で取り組まれてきた代表的活動であるが、“話す”“発表する”は、とくに高等学校の教科、大学の講義科目の授業においてはほとんど取り組まれてこなかった活動である。理解をほんとうに求めるなら、“書く”だけでなく“話す”“発表する”の活動にも取り組んでいくことが必要である。
アクティブラーニング論は、変わる社会をにらんだ学校教育の社会的機能の見直し、つまり学校から仕事・社会へのトランジション(移行)の実現を主唱したものである。これまでのように、個の力を育てれば、将来力強く仕事・社会に移行できる状況ではなくなってしまっている。いくら個の力が育っていても、いくら有名大学を卒業していても、協働の力の弱い者が力強く生きていける仕事・社会ではなくなっている。この現実を学校教師の多くは見落としている。何のために学校で学ぶのか。将来、仕事・社会に出てから力強く生きていくためではないのか。京都大学のような研究大学でさえ、学問の世界で就職する者はせいぜい2割である。ほとんどの学生は、企業や公務員、専門職として仕事の世界を生きていく。
児童生徒の個と協働の力をバランス良く育てることが、いま学校教育に求められている。説明の活動が“話す”“発表する”というように社会的に拡張されているのは、まさにトランジションをにらんで学校教育を転換させようとしているからである。主体的・対話的で深い学びでいえば、「対話的な学び」は外せない要素であり、これを外して「深い学び」に到達しても、新しい社会的状況に適応する学びとはならない。こうして、新学習指導要領の「社会に開かれた教育課程」の意味が見えてくる。
自分の言葉で外化するという活動は、その過程において、学習者のもつかなり多くの資質・能力を可視化させる。まず、外化するには、児童生徒が相当学習課題に対してモチベーションを上げていなければならない。モチベーションが低い状態では、外化など面倒くさくてとても取り組む気にならない。他者や集団の前で“話す”“発表する”のが苦手な生徒は、上記のトランジションを力強く果たせない確率が高くなる。それが可視化される。“話す”“発表する”力はあっても傾聴力の弱い児童生徒は、言いたいことを言うだけの身勝手な“話す”“発表する”となることも珍しくない。それで仕事・社会で求められる協働学習がなされるはずはない。
全国のアクティブラーニング型授業を視察してうまくいっていない授業のほとんどは、この外化の過程で可視化される児童生徒の資質・能力をうまく育てられない教師のものである。スクール形式の講義型授業で、資質・能力の弱い生徒は問題とならなかった。しかし、外化を導入すると、とたんに教師の意に反する態度を露呈する。それでアクティブラーニングは無理だ、講義の方がいいという見方に戻る。しかし、私は生徒のそのような露呈した態度こそが、彼らの大学進学後や仕事・社会に移行した後に見せる真の姿だと説いてきた。データでもそれが示されてきている。
小学校の授業では、活動はふんだんに取り入れられているが、できる児童だけの発言で授業全体が進んでおり、児童一人ひとりの資質・能力の育成に目が届いていない授業が少なくない。筑波大学附属小学校の桂聖教諭らは、授業UD(ユニバーサルデザイン)を提唱して、この問題に取り組んでいる(小貫・桂, 2014; 田中・桂, 2016)。内実は同じものを目指している。すばらしい実践である。
外化は、深い学びをも促す(「(講話)外化としてのアクティブラーニング-外化なしの学習は思考力育成を放棄しているに等しい-」を参照)。そもそも深い学びとは、頭のなかにある知識や事象を外化して繋いでいくなかで、その繋ぎの論理や根拠は適切かといったことを問題として育てられる学びである。ある一つのテーマや概念に、どれだけの事象が繋がっているか、そこに“深さ”を見るのである。外化なしに深い学びを見てとることは不可能である。
※本稿は、『教育科学 国語教育』連載第1回(No.820)(2018年4月)の「アクティブラーニングも主体的・対話的で深い学びも、ポイントは外化にあり」をもとに加筆・修正したものです。