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(講話)政府のウェルビーイング論と目指す社会、資質・能力との関連-『令和の日本型学校教育(答申)』より-

要点

 

1.はじめに

『令和の日本型学校教育(答申)』(注1)の中で「ウェルビーイング」(注2)という用語が用いられており、答申全体を貫く基本的視座の一つとなっている。政府のこれから出される他の施策文書の基本的視座の一つにもなっていくと考えられ、ここでは『令和の日本型学校教育(答申)』を例にして、ウェルビーイングの用いられ方を見ておく。

(注1)中央教育審議会『「令和の日本型学校教育」の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~(答申)』(2021年1月26日)
(注2)ウェルビーイングの概念の定義や一般的な説明は、「(用語集)ウェルビーイング」(http://smizok.net/education/subpages/a00051(well-being).html)を参照のこと。

 

2.答申におけるウェルビーイングの視座

答申の脚注2(p.4)では、ウェルビーイングの定義をOECD『PISA2015年調査国際結果報告書』から、「①生徒が幸福で充実した人生を送るために必要な,②心理的,認知的,社会的,身体的な働き(functioning)と潜在能力(capabilities)である」(下線部と番号は筆者による)と紹介している。ここで下線部①は、ウェルビーイングの原義である「幸せ」や「良い状態・存在」を指すものと考えられる。他方で下線部②は、要はウェルビーイングを資質・能力の育成に関連づけて扱う意図を示しているが、なぜ単なる幸せや良い状態・存在の意であるウェルビーイングに、資質・能力の育成との関連づけが必要なのかは答申では書かれていない。もう少し説明が必要である。

答申と同時期に並行して審議された内閣官房の教育再生実行会議の第十二次提言(注3)では、OECDのより最新のレポート「ラーニングコンパス2030」(詳しくは白井, 2020参照)を踏まえて、ウェルビーイングと目指す社会、資質・能力について次のように説明されている。

 

    教育再生実行会議では、ポストコロナ期における新たな学びの在り方を考えていくに当たって、こうした課題を解決するためには、①一人一人の多様な幸せであるとともに社会全体の幸せでもあるウェルビーイング(Well-being)の理念の実現を目指すことが重要であるとの結論に至りました。②この幸せとは、経済的な豊かさだけでなく、精神的な豊かさや健康も含まれ③このような幸せが実現される社会は、多様性と包摂性のある持続可能な社会でもあります。④こうした社会を実現していくためには、一人一人が自分の身近なことから他者のことや社会の様々な問題に至るまで関心を寄せ、社会を構成する当事者として、自ら主体的に考え、責任ある行動をとることができるようになることが大切です。こうした個人を育むためには、我が国の教育を学習者主体の視点に転換していく必要があります。

    (『第十二次提言』p.1、下線部と番号は筆者による)

(注3)教育再生実行会議『ポストコロナ期における新たな学びの在り方について(第十二次提言)』(2021年6月3日)

この説明には多くのポイントが凝縮して詰め込まれており、少なくとも4つに分けて理解される必要がある。

第1に、ウェルビーイングの原義である「幸せ」を踏まえつつ、かつその対象を個人のみならず社会にも拡げていることである(下線部①)。
 第2に、ウェルビーイングを「経済的な豊かさ」だけでなく、「精神的な豊かさや健康」などの次元まで拡げて広く捉えていることである(下線部②)。これは原義に近い捉え方である。

第3に、第1、第2を踏まえて実現を目指す社会を「多様性と包摂性のある持続可能な社会」だとすることである(下線部③)。ウェルビーイングを、もし「経済的な豊かさ」だけに限定していれば、目指す社会は競争を勝ち抜くための資本主義社会と狭く捉えられかねない。かつての受験競争のような、矮小化された能力主義が学校教育の中で求められることにもなってしまう。しかし、「精神的な豊かさや健康」まで含めた意味でのウェルビーイングを学校教育の先に目指す社会のポイントと措定することで、さまざまな立場、とくに社会的弱者や貧困家庭、低い社会経済的地位出身の子供にとっても意義のある社会、そのための学校教育を目指すことになる。もちろん、「持続可能な社会」(下線部③)という用語が、2015年の国連サミットで採択されたSDGsと関連づけられるものであることは明白である。SDGsが、「貧困」「飢餓」「健康」「ジェンダー」などのテーマをアジェンダとして、地球上の誰一人として取り残さない公正な社会を目指す運動であることは、関連づけて理解されなければならない。

第4に、そのような社会を実現するために子供(個人)は、その「社会を構成する当事者」であらねばならず、そのために「自分の身近なこと」はもちろん、「他者のことや社会の様々な問題に至るまで関心を寄せ・・・(略)・・・自ら主体的に考え、責任ある行動をとることができる」ことが期待されるということである(下線部④)。第1の点で指摘される、個人の幸せだけでなく社会の幸せまで含めてウェルビーイングを説明することで初めて、ウェルビーイングや「多様性と包摂性のある持続可能な社会」の実現のための資質・能力の育成が必要であるとなる。こうして、『令和の日本型学校教育(答申)』で説明されるウェルビーイングの実現のために、資質・能力の育成が必要だと理解されるのである。

なお資質・能力は、OECD「ラーニングコンパス2030」の提言ではよく知られる「エージェンシー(agency)」をも指している(白井, 2020)。エージェンシーは、答申や教育再生実行会議第十二次提言で述べられる「自ら主体的に考え、責任ある行動をとることができる」にほぼ相当し、新学習指導要領では資質・能力の三つの柱の一つ、「学びに向かう力・人間性等」に近いと考えられるものである。

 

 

3.(補足)「誰一人取り残すことのない」から「全ての子供たちの可能性を引き出す」へ

答申には、これまでの学校教育が抱えていた課題がてんこ盛りで付け加えられており、理解を難しくしているように見える。たとえば、新型コロナウイルス感染症の感染拡大の中、再認識された学校の役割(①学習機会と学力の保障、②全人格的な発達・成長の保障、③身体的,精神的な健康の保障 [安全・安心につながることができる居場所・セーフティネット])、そして教員の働き方改革や少子化に伴う学校教育機能の維持などがそうである。しかし、学校の役割(①~③)については、それを「全人格的」な「福祉的役割」と特徴づけることで、これまでの伝統的な日本型学校教育が強みとしてきたものと理解されることになる。答申では、今一度そのことを確認し、強みを活かした令和版・日本型学校教育として再出発し、教員の働き方改革や少子化に伴う学校教育機能の維持などの新しい令和の課題を加えて発展させていくと宣言する。

しかし、「伝統的な強み」だけで、必ずしもこれからの学校教育が社会に対して十分な役割を果たせるとは限らないところに現代的な難しさがある。とくに、Society5.0を見据えたICT活用、デジタルリテラシーの育成、それに関連するさまざまな教育内容、方法の刷新は、新しくもあり難しい課題である。これは「伝統的な強み」では対処できない現代の学校教育の新しい課題である。新学習指導要領が、さまざまな具体的課題を提起しつつも、その基礎となる学力を大きく「資質・能力の三つの柱」と一まとめにしたことは、直接的にこの点を言い表している。

実は、『令和の日本型学校教育(答申)』の『中間まとめ』(2020年10月)が「案」として審議される過程では、答申のタイトルは『誰一人取り残すことのない「令和の日本型学校教育」の構築を目指して~多様な子供たちの資質・能力を育成するための、個別最適な学びと、社会とつながる協働的な学びの実現(素案)』とされていた(下線部は筆者)。ここでの「誰一人取り残すことのない」は、持続可能な社会を目指すSDGsのスローガンであり、「1」で述べた第4のポイントを踏まえたものであったと推測される(注4)。しかし、それを最終答申の「全ての子供たちの可能性を引き出す」に修正したのは、日本型学校教育の「伝統的な強み」を基礎として公正な社会、そのための学校教育を目指しながらも、他方で積極的に個人の資質・能力、あるいはエージェンシー(「1」の最後を参照)を育成しなければならないことをより重く打ち出したかったからである(注5)

ここまで踏まえられれば、『令和の日本型学校教育(答申)』でウェルビーイングの実現を大きく見据えながらも、「全ての子供たちの可能性を引き出す」ために個別最適な学び、協働的な学びを推進する必要性があるとも理解できるだろう。

(注4)遡れば、「誰一人取り残すことのない」というスローガンは、米国で学力格差是正のために2002年に制定されたブッシュ前大統領時の「どの子も置き去りにしない法(No Child Left Behind Act of 2011)」に関連づけられる(その制定の背景や成果、課題については吉良[2009] に詳しい)。
(注5)文部科学省初等中等教育局教育課程部会(第119回、2020年8月24日)議事録における秋田喜代美委員の意見。同新しい時代の初等中等教育の在り方特別部会(第13回、2020年9月11日)議事録における天笠茂教育課程部会長の意見(板倉寛教育課程企画室長代理説明)、ほか小林いずみ、貞広斎子、今村久美各委員の意見による。

 

文献

吉良直 (2009). どの子も置き去りにしない(NCLB)法に関する研究-米国連邦教育法の制定背景と特殊性に着目して- 教育総合研究(日本教育大学院大学紀要), 2, 55-71.

白井俊 (2020). OECD Education2030プロジェクトが描く教育の未来-エージェンシー、資質・能力とカリキュラム- ミネルヴァ書房

 

 

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