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(講話)「あの子はおとなしい性格だから」は無責任!(Part 1)-何のための学校教育か?
要約
おとなしい、議論もできないような性格では、生徒は学校から仕事・社会へのトランジションを十分に乗り越えられないだろう。いくらテストでの成績がよくても受験学力が高くても、学力の三要素に照らせば、この態度の弱さは学力の低さと同義である。
おとなしい子供の性格を一人格として認めてあげたいが、その子供が先々苦労することが目に見えているなかで、そうやすやすと「それでいいよ」とはとてもいえない。あたたかく関わりながらも、その子供の社会化を一歩でも二歩でも促さなければならない。教師の促しが、やがては子供自らわき上がる意欲に繋がるように指導・支援しなければならない。
この問題は、何のために教育をするのか、私たちはなぜ教師になったのか、生徒はなぜ学校で学ぶのか、という学校教育の(社会的)意義の話になる。もちろん、この答えはトランジションに他ならない。
第1節 「あの子はおとなしいけど成績はいいんですよね!」「おとなしい性格も認めてあげたい」
全国で見てきたさまざまなアクティブラーニング型授業をふり返って、私自身の授業も含めて、この問題でよく思い出すエピソードがいくつかある。個人や学校が特定されない範囲で脚色して、中学校と大学でのエピソードを紹介する。
(エピソード1)ある中学校の国語の授業。教師はグループワークをおこなうことを指示し、4人で机を向かい合わせる。ここまでは指示がとおる。力量の高い教師の授業で、教室全体は活気に満ちたグループワークが始まる。さすがだなと関心しながら教室を見渡していて、ふっとある男子生徒が目にとまる。まったく話をしていない。しかし、グループワークに参加していないわけではない。どちらかといえば、物静かに他の生徒の議論を聞いている感じだ。アクティブラーニング型授業を少しでも見学すれば、どこでも見られる光景の一つだ。
問題は、ここからだ。横で一緒に見ていた同校の教師に私は尋ねた。
溝上「あの生徒は?」
教師「ああ、●●君ですか。彼はとてもおとなしくて、ふだんもあまりしゃべらない子です。ALは難しいですね。でも、成績はいいんですよ。」
溝上「・・・」
(エピソード2)私の授業。留学生向けの心理学の英語講義。60人くらいの受講生のなか、3分の1は日本人学生。アクティブラーニング型で授業している。毎回乱数アプリを使って3~5人グループをつくり(年と全体の受講者数によって異なる)、授業冒頭で席替えをする。乱数アプリでグループ分けするので、留学生と日本人が必ず混ざるとはいえないが、たいていは混成となる。
3人のグループワークで進めた一昨年の授業のあるグループ。留学生2人と日本人の男子学生1人の構成だ。男子学生の表情が乏しい。笑ったことがないのではないかと思うほどである。ふっとそのグループを見ると、男子学生は留学生2人の議論に入れてもらえず、ひとりしょぼんとしている。その学生のところへ行って小さい声で、日本語で話しかけた。
溝上「議論しろよ。」
学生「最初は話すのですが、(留学生が)すぐこっちの顔を見てくれなくなって、のけものになってしまうんです。」
溝上「話しかけていけよ。」
学生「なんか、無視されているみたいで、勇気が出ません。しかも英語だし。」
なるほど・・・。私は留学生二人に(英語で)、
溝上「彼は話すのが少し苦手だから、“これどう思う?”とか訊いてあげて」
と頼んだ。彼らは
留学生「わかりました!(“Okay, Professor!”)」
と元気よく応えてくれた。10分後このグループを見ると、男子学生はまたひとりぼっちになっていた。授業後話を聞くと、一度は訊いてくれたようだが、すぐ二人だけの議論に戻ってしまったようだ。留学生に訊くと、彼と話をしても反応が弱くて、おもしろくないらしい。2~3週間後この学生は授業に来なくなった。
次節の私のコメントに入る前に、中学校、高校のアクティブラーニングに関する講演会や研修会で、よく受けるコメントも紹介する。
学校が子供たちの性格まで踏み込んで教育や指導をするのはやりすぎだ。おとなしい子供の性格もしっかり受け止め、認めてあげたい。
何でも話すことが重要であるといった風潮にうんざりしている。一人で物静かに考えたり勉強したりすることも重要ではないか。
第2節 何のための学校教育か!
上記のエピソードやコメントで登場する教員は、アクティブラーニング型授業に熱心に取り組んでいる。組織的にも、アクティブラーニング改革の中核教員であることが多い。ここは大前提である。さまざまな能力、性格をもつ生徒学生の学習を創り出し、教育、指導、支援している彼らの教育活動に、まずは敬意を表したい。
その上で厳しい物言いをせざるを得ないが、やはりエピソードやコメントにある生徒学生は問題であり、その生徒学生に対する教師の教育・指導観も問題である。政府が学習指導要領を改訂して求めている教育改革のねらいともずれている。
私も、対人関係の弱い生徒学生の性格を一人格として認めてあげたい。「それでいいよ」と言ってあげることのほうがはるかに楽だろう。しかし、その生徒学生が先々苦労する確率の高いことがわかっている中で、教育者として、そうやすやすと「それでいいよ」とは言えない。あたたかく関わりながらも、その生徒学生の社会化を一歩でも二歩でも促さなければならない。その促しが、やがては生徒学生自らわき上がる意欲となるように指導・支援しなければならない。厳しい物言いだが、このように説かないといけない現実がある。
いくら知識があっても地頭がよくても、いくら良い大学を出ても、自分の考えを述べられない、他者と議論ができない、しようとしないといった人がやっていける仕事・社会ではもはやなくなっている。一人で物静かに考えたり勉強したりすることは重要である。このような個の力が備わっていてこそ、協働の力もまた映えるというものである。しかし、個の力だけではまったく不十分である。対人関係の弱い生徒学生は、学校から仕事・社会へのトランジションにおいて苦労する確率が高いだろう。
この2~3年、大学生の就職状況は超売り手市場になっており、多くの大学での就職率は(就職希望者を分母として計算して)ほぼ100%近くになっている(この「就職希望者を分母とする」という点は、留年や就職活動を止めた人などを分母から除外しているという点で留意すべきである)。だから、多くの大学ではいま、卒業予定者の就職に関してさほど深刻な状況にはない。新聞等で「超売り手市場の就職状況」とも報道されている。
しかし、バブル崩壊以前ならいざ知らず、そんなことで喜んでいられる時代ではなくなっていることを、まだ理解しない人たちがいる。
雇用構造の変化は、この状況を理解するのにまず押さえておかねばならないものである。かつての日本的雇用と呼ばれた終身雇用や年功序列による雇用構造は、多かれ少なかれ崩れてしまっている。就職状況は超売り手市場となっても、就職後の離転職状況は今なお深刻な状況である。つまり、七・五・三と呼ばれた離転職の状況(3年以内に離転職をする人が中卒で7割、高卒で5割、大卒で3割という状況)は今も変わらず起こっている。良い会社や官公庁に就職できればそれで人生安泰などという方程式はとうに崩れてしまっている中、就職できたことだけで喜べる状況ではないということである。
しかも、バブル崩壊以前と違い、労働市場における非正規雇用の占める割合が相当高くなっている。与えられるルーチンの仕事を黙々とこなす人材(テストでの成績がよくても、グループワークができない生徒学生をここに重ねている)は、多くの場合、非正規として雇用されるだろう。ルーチンの仕事だからといって、その仕事は決してやさしいものではない。かつては正規雇用の従業員がおこなっていた仕事である。いま正規雇用の従業員には、問題解決や新規事業、その戦略を考えるなどの仕事が求められている。
ICTの技術がますます発展し、最小限のスタッフで多くの取引や予約、文書作成、事務処理がなされるようになっている。AI(人工知能)の発展がすさまじいことも報道されるとおりで、それも併せてふまえて、今後はルーチンの仕事の中に、非正規雇用にさえ回ってこないものがあることも知っておく必要がある。否、この傾向はすでに起こっていることである。
さらに、少子高齢化・人口減少をはじめとして、さまざまな側面での日本社会の縮小が進んでおり、それに伴って新たな課題や問題が噴出している4。この状況を少しでも考えてみれば、一人の頭や能力でどうにかなるようなものでないことはすぐわかるはずである。答えのない課題や問題に対して、一人ひとりのもつ考えや知識、情報をくまなく外化し、ああだこうだと皆で頭を悩ませ、それでも前に進まない、問題が解決しないという中で、少し糸口が見えてくる。まずはそれをしてみようか、それで少しは前に進むかもしれない、そのような状況である。個の力も必要だが、皆で協働する力も必要である。対人関係の力が個の力に重ねられねばならない。
考えを述べられれば、それでいいというものでもない。他者(ひと)の話を聞かない、他者(ひと)の感情を考慮せずに思うことをいいたい放題いうなどの、他者との関係性に開かれていない性格も問題である。これらの人は雇ってもらえる確率が低く、運よく雇ってもらえたとしても、職場で良い働きができない確率が高い。大きな仕事、プロジェクトチームから脇へと追いやられることもあるかもしれない。
力のある学生が知らずにブラック企業に入ってしまい、離職しないと命が危ないからと助言している話を、大学のキャリアカウンセラーから何度か聞いたことがある。厳しい状況に直面しても、いろいろな事情で離転職を余儀なくされても、問題を克服して力強く前へ進んでいく、そのようなキャリア意識や資質・能力が求められている。アクティブラーニングやキャリア教育、資質・能力の育成、昨今進む教育改革や学習指導要領の改訂など、すべてはここに絡んでくる。
もちろん、基礎的な学力、教養や専門的な知識は、仕事や社会的活動の基礎としてとても重要である。個の力と協働(対人関係)の力の両方が重要であると述べたとおりである。キャリア意識やおしゃべり能力は高くても、書類に何かを書かせれば誤字脱字だらけ、モノを知らない、人の話を理解するだけの知識がないというのでは話にならない。これまで、そのような話を山ほど聞いてきた。「良い子なんですけどねぇ」と付け加えられるコメントが妙に悲しい。「良い子、元気な子というだけではダメだ」、いつも私の中でこだましている考えだ。
その性格ではトランジションの壁を乗り越えられないだろうと説くにしても、それは確率の問題であることも補足しなければならない。以上の問題がすべての生徒学生の未来に同じように降りかかるとまでいっているわけではない。どこかで何とかなるかもしれないし、途中で大化けするかもしれない。そのようなことが起こるなら、それは大いにけっこうなことである。
しかし、私のこれまで見てきた限りでは、そのようなことが起こるのは稀であり、10年トランジション調査の結果(「
(講話)高校生の半数の資質・能力は大学生になってもあまり変化しない-10年トランジション調査」を参照)を見ると、高校2年生秋頃には、仕事・社会へのトランジションに向けた資質・能力やそれを支えるパーソナリティ、学習態度は相当仕上がってきていることもわかってきている。先々への期待はけっこうなことであるが、現実には、高校生や大学生のときに教室で見せる姿が多かれ少なかれ彼らの将来の姿でもあることを、頭のどこかで理解しておかねばならない。
小中学校、高校、大学のあらゆる学校種の教員に、この問題を抱える生徒学生にあれやこれやと指導や支援をして、そのうえで「私たちはできる限りのことを精いっぱいおこなったが、十分な姿で卒業させることができなかった。あとは上の学校、仕事・社会で引き続き頑張ってほしい」と言ってもらいたい。能力の個人差は無視できない現実としてあるので、人をあらゆる側面において満点で育て上げることなどできはしない。しかし、「育てよう」とすることはできるはずであるから、そのように言ってくれると話は続けられる。
エピソードやコメントでも紹介したように、多くの教員はおとなしい生徒学生や話の苦手な生徒学生を、それでも成績は良い、あるいは彼らの個性として認めてあげたいという理由をもって育てる対象から確信犯的に除外している。筆者はここを問題としている。小中学校から高校、大学へとトランジション・リレー(「
(講話)現場の改革に繋げよ!-学習指導要領改訂(案)に対するコメント」を参照)をして、あらゆる学校種で将来の仕事・社会を力強く生きていく生徒学生を、一人でも多く育てたい。
何のための学校教育か、私たちはなぜ教師になったのか。生徒学生はなぜ学校で学ぶのか。それは、生徒学生が将来力強く仕事をし社会生活を営めるようになる、それに向けての成長を指導・支援するためではないのか。そのための学力をつけるためではないのか。生徒を良い大学に入れることが目的だと言い張るのなら、塾や予備校の教師になればいい。学校の教師である必要はない。
高校教員の中には、自分が教科の勉強を大学を終えた後も引き続きしたいから、教師という職業は生活の糧として仕方なくしているものだ、という人がいる。論外だ。すぐさまその考えを改めるか、教員を辞めるかすべきである。生徒に失礼である。
大学教員は、教育も研究もともに職務であることを確認すべきだ。教育もおこない研究もおこなうことが求められている。きれいごとのように聞こえるかもしれないが、それが大学教員に課せられる職務である。研究しかできない、したくないというのなら、教育のない研究所に移動すべきである。
2007年には学校教育法改正で、学力の三要素が規定された。そこで学力とは、基礎的な知識・技能の習得だけではなく、思考力・判断力・表現力、主体的に取り組む態度を身につけることまで含めて規定されている8。大学人は、2008年の学士課程答申9で示された学士力(知識・理解、汎用的技能、態度・志向性、統合的な学習経験と創造的思考力)を当てはめて理解すればいい。
テストでの成績や受験学力は、主として、学力の三要素でいうところの基礎的な知識・技能の習得、思考力を指すものであろう。問題解決力や議論する力(判断力・表現力)まで問うものは、あったとしても一般的ではない。結果、テストでの成績や受験学力だけでは、仕事・社会に力強く移行していけるだけの学力を総合的に育てていないことになる。
もちろん、現実と理想の往還という問題は、この種の議論では常に前提である。大学に入れることもできない高校を中学生は受験しないだろう。同様に、就職もできない大学を高校生は受験しないだろう。だからといって、受験と就職に特化するなら、前者は予備校と、後者は専門学校と名前を変えたほうがいい。生徒学生の未来を考えて教育をしてほしいと願う。
最後に
エピソード2で私が大学の事例を紹介したのは、大学では多くの場合、必修科目でもない限り、力のない学生、自律のエンジンをもたない学生はその授業を受けなくなるという形で逃げられることを知ってほしいからである。私の授業をやめても、他で頑張っているならそれでいいが、なかなかそうはなっていないだろうと思う。もちろん、私の授業は例として挙げているだけである。誰の授業でもいい。
消えてしまった学生のその後が気がかりだが、追跡は不可能である。追いかけて何とかと思っても、顔も名前もわからない。とくに1、2年生に授業をおこなっている大学教員にとっては、なんともしようがない物理的制約である。逃げる学生、やめる学生を追いかけて何とか、というのは、自律的なエンジンを前提として営まれる大学教育の理念から外れているという考えもある。しかし、1、2年生の学習や過ごし方が4年間の成長や成果を大きく規定するというエビデンスは多く出てきている。大学という教育環境のなかで、この問題にどう取り組んでいけるか、早急に考えなければならない。