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(講話)GIGAスクール構想をもっと早く進めておけば・・・-マスコミの報道も政府批判ばかりで推進を阻む-

要点

  • GIGAスクール構想をもっと早く進めておけば、社会全体で推進する雰囲気を作っていれば、このコロナ禍に対する公立学校の取り組みはもっと違ったものになっていたはずである。
  • 野球で言えば、ボールの投げ方の理屈は後から教えていけばいいので、子供に「ボールを投げよ」と早く促すべきである。アクティブラーニングを導入しようという時も同じであったが、GIGAスクール構想に対しても、社会や学校は過ちを繰り返し犯し続けている。理論や必要性、社会的意義はもう十分に提出されている。実践を前に進めよと言いたい。
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     本ページで以下に示すのは、2020年3月〆切で、GIGAスクール構想に対する専門家の意見を求められ寄稿したある雑誌へのボツ原稿である。「ボールを投げよ」だけではわからない、ICTを利活用することがどういうふうに学校教育を変えていくのか、どのように効果的なのかをもっと説明してくれないと原稿にならないと編集者とすったもんだして、寄稿をこちらから取り下げたものである。

     アクティブラーニングの時もそうだったが、ICT利活用の意義についてはもううんざりするほど説かれている。ICT利活用の社会的意義はこの1年、2年初めて説かれたようなものではなく、もう10年、20年と技術の進展に合わせて意義がその都度説かれてきたものである。近年その必要性がいよいよ一般レベルにまで高まり、それを踏まえてのGIGAスクール構想であった。しかも、グローバル化した情勢の中で日本はこの分野で相当の遅れをとっており、ようやくというものでもあった。それを、新聞や雑誌等マスコミの報道は、PC・タブレットを配って何をするのか、金の無駄遣いだなどと政府への批判を重ね、推進にブレーキをかけた。

     もう議論はいいから早く学校でICT利活用ができる環境を整えよ!という状況であった。私はそれを「ボールを投げよ」と説いたのだ。アクティブラーニングの推進の時には、もう議論するのはそれくらいにして「水に入って泳ぎなさい」とも説いた(講話「泳ぐことの重要性を理解してから水に入るのではなく・・・-理解したらALに取り組むという考え方では進まない-」)。

     そして、コロナ禍がやってきてこれである。特に公立の小中学校・高校のオンライン授業に取り組めない問題の元凶は、GIGAスクール構想へのこのような反応に象徴的に認められる。結果、公立の学校のさまざまな面における取り組みのすさまじい遅れを露呈している。

     変化の激しい社会、問題解決の社会に向けて、子供たちの生きる力を育てるべく、学習指導要領が2016年に改訂されたばかりである。2020年4月からは小学校から中学校・高校へと順次実施していく運びである。コロナ禍に影響を受けて、社会がここまですぐさまに深刻な打撃を受けるとは、私も予想していなかったが、まさに「予測困難な社会」と謳ってきたその状況が象徴的に現実のものとなっている。

     学校は今は場当たり的でもいいので、問題を解決して課題に取り組み、少しでもできることをしていくことである。その後考えなければならない問題は、コロナ禍をどれだけ教訓にして、ポストコロナの学校教育を再構築していくかである。もう過ちは繰り返さず、変化の激しい、問題解決社会に向けた教育的取り組みを前に進めることを期待したい。

     

     以下ボツ原稿の一部である(注1)。たかだか2ヶ月前に書いた原稿であるが、ずいぶん以前に書いたかのような錯覚に襲われる。ポストコロナの学校教育の再構築をにらんで、議論を残しておく。  

     

    (注1)2020年3月のはじめ頃に執筆したある雑誌への寄稿原稿である。本ウェブサイトの他のページで多く説明している箇所は削除し、また表現を修正している。

     



     

    「変わる日本社会」に繋げて子供たちを育てよ
         -GIGAスクール構想を利用して新学習指導要領を肉付けする-

     

     

    1.はじめに――子供たちにまずボールを投げさせたい

     2019年12月に政府よりGIGAスクール構想が発表された。児童生徒向けの一人一台の学習用端末と、高速大容量の通信ネットワークを一体的に整備しようとする構想である。要は、国家レベルで学校におけるノートPCやタブレット等のICT機器を使用した学習環境(以下、ICT学習環境)を網羅的に整備しようというものである。これ自体は悪い話ではなく、むしろ歓迎すべきものである。

     ちょうど、この(2020年)4月より小学校の新学習指導要領が実施される。順次、中学校・高等学校等へと実施されていく運びである。新学習指導要領を特徴づける大きなキーワードは、「社会に開かれた教育課程」である。資質・能力の三つの柱、 主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)、高校における総合的な探究の時間の改称など、多くの取り組みは社会に開かれた教育課程に結びつけて説かれている。そして、これらを通底する基礎的な取り組みの一つが、 「教育の情報化」(注2)である。GIGAスクール構想はここに絡んでいる。

     

    (注2)文部科学省『教育の情報化に関する手引』(2019年12月)

     

     本稿は、GIGAスクール構想をうまく利用して、新学習指導要領で説かれる社会に開かれた教育課程を実現する学校教育を目指してほしい、と論じるものである。ICT学習環境の網羅的整備の先に大きく何を見ているのかの視座がなければ、GIGAスクール構想は単なる箱物行政的な取り組みで終わってしまう。先に見るべき視座は、子供たちを「変わる日本社会」に繋げて育てるべく学校教育の取り組みを発展させることである。GIGAスクール構想がうまくこれに繋がって、社会に開かれた教育課程を実現する学校教育を目指したい。

     モノ(ICT学習環境:ノートPCやタブレット等の端末、WiFi環境)の導入や整備が先にあって、中身(教授学習)が後づけで考えられる短絡的な取り組みについて批判されることがある。GIGAスクール構想も、この批判を免れ得ない。他方で、人は使ったこともない道具や機器の利活用について考えることはできないという問題がある。野球を例にするなら、ボールを投げたこともない子供に、ボールの投げ方をいろいろ説いても仕方がない。まず「ボールを投げよ」と促してみることが重要である。GIGAスクール構想は、ボール、グローブ、グラウンドを指導者、子供たちに提供するインフラ整備の事業である。良くも悪くも、この程度の話である。ボールやグローブがなければ、指導者は「ボールを投げよ」と子供たちに促すこともできない。

     

    2.「変わる日本社会」を見据えて学校教育を再構築する

     21世紀の社会は知識基盤社会であり、新しい知識・情報・技術が社会のあらゆる領域での活動の基盤となる。社会の情報化・グローバル化はいっそう進み、その進展は人間の予測を超えて加速度的である。 人工知能(AI)やビックデータ、IoT(Internet of Things)、ロボティクス等の先端技術の開発や利用が進み、私たちの仕事や暮らしを大きく変えていっている。Society 5.0の時代の到来が予想されている。 これらに、先進国の中で最速で進む少子高齢化・生産年齢人口の減少、それによる労働力の不足や公共サービスの低下など日本固有の問題を加えた「変わる日本社会」(注3)に向けて、子供たちをしっかり育てていく学校教育の取り組みが待ったなしの状態で求められている。

     

    (注3)社会の変化はSociety 5.0だけで説明できるものではない。少子高齢化・生産年齢人口の減少といった日本固有の問題まで含めて理解されなければならない。「変わる日本社会」と文科省施策「社会に開かれた教育課程」との関連については、溝上(2018)の第4章を参照。

     

     今日学校教育の改革が矢継ぎ早に展開するのは、まさにこの「変わる日本社会」に接続して子供たちを育てようとしているからである。これまでの教育で何が悪いのか、なぜこんなにあれもこれもと新しい取り組みが求められるのか、といった現場の批判や不満は最高潮に達している現実はある。しかしながら、「変わる日本社会」に接続して、そこに出ていく子供たちをしっかり育てておきたいとひとたび考えれば、これまでの教育で十分だとは考えられないはずである。逆に言えば、これまでの教育で良しとする昭和モードの教員は、「変わる日本社会」を見ていないか、見ていてもそれを子供たちの未来に繋げて考えていないのである。

     平成生まれの若い教員も、昭和のモードが残存する中教育を受けてきたので、総じて学校教育の世界では昭和モードが再生産され続けているというのが私の見方だ。学校現場の自主性・自律性に基づく教育実践が求められるのは当然のことだ。しかし、大枠が昭和モードに基づいたものであり、教えた子供たちが卒業後どうなっているのか、データも無ければそれを集めることもない学校現場の状況がある。大枠だけであるべきだが、全国の学校が自身の取り組みの視座を、昭和モードから自主的・自律的に脱していくことはもはや不可能だと思われるほどである。一生懸命勉強してテストで良い点を取っても、良い大学を出ても、それを活かすだけの資質・能力がないばかりに、学校卒業後の仕事・社会で「変わる日本社会」に適応できず、冷遇されている人は決して少なくない。残念なことに、学校の教員には送り出した後のその現実が見えにくい。日本社会のさまざまな縮小を横目に見ながら、「変わる日本社会」に接続した学校教育の転換が、おそらく間に合わないのではないかと危惧するのは私一人ではないはずである。

     学校と仕事・社会とを繋ぎ、「変わる日本社会」を見据えた学校教育の社会的機能を再構築していこうとする取り組みを、私は「学校から仕事・社会へのトランジション」(以下、トランジション)の実現と呼んできた(溝上, 2018)。学校の教員は、「変わる日本社会」の視点から学校教育のあらゆる活動を見直さなければならない。この作業をしっかり行えば、いろいろ表現や説明の仕方の違いはあっても、結果として文科省の施策の方向性にたどり着くはずである。

     

    3.文科省の施策――新学習指導要領の実施

     この4月から新学習指導要領が小学校から順次実施される。大きなキーワードは社会に開かれた教育課程であり、「変わる日本社会」を生きる力を備えた子供たちを育てることを、カリキュラム・教授学習レベルで求めている。

     生きる力は、1998年の学習指導要領改訂でゆとり教育とセットで出てきた用語であるが、2008年学習指導要領改訂でゆとり教育が見直されたときにもこの用語は残され、学力の三要素(2007年教育基本法改正、第30条2項)、それに基づく資質・能力と併せて肉付けがなされてきた。新学習指導要領では、資質・能力の中身をさらに整理して、以下の「資質・能力の三つの柱」として最新版を掲げている。言い換えれば、「変わる日本社会」を見据えた生きる力の新学習指導要領版と言えるものである。

     

      ①何を知っているか、何ができるか(個別の知識・技能)
      ②知っていること・できることをどう使うか(思考力・判断力・表現力等)」
      ②どのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るか(学びに向かう力、人間性等)

     

     ①は、学校教育の基礎・基本としての知識・技能の習得を説くものであり、これは問題ないだろう。社会に開かれた教育課程に関連するのは、②③である。③は社会や世界に開かれて生きていく態度や志向性、人間性等を説くものであり、②は①を基礎としながら③を実現していくための能力を説くものである。

     ここで問題となるのは、②の思考力・判断力・表現力等、③の学びに向かう力、人間性等を実現する授業法やカリキュラムを具体的にどのように求めるかということである。新学習指導要領では、大きく2つの取り組みの推進を求めている。

     1つは、主体的・対話的で深い学び(アクティブラーニング)の推進である。2014年に当時の文部科学大臣から諮問され、学習指導要領改訂のキーワードとなったものである。アクティブラーニングの推進は、 より社会と接続する大学教育において先行して進められてきた取り組みであり(注4)、主体的・対話的で深い学びと用語は併用する格好となりながらも、実質的には小学校から大学までアクティブラーニングを授業に組み込むことを求めるものと なっている(注5)

     

    (注4)大学教育でのアクティブラーニング推進は、中央教育審議会『新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて-生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ-(答申)』(2012年8月28日)で提示されたものである(詳しくは「(理論)大学教育におけるアクティブラーニングとは」を参照)。
    (注5)大学教育でのアクティブラーニングと初等・中等教育のそれとの関連については、「(理論)初等中等教育における主体的・対話的で深い学び-アクティブ・ラーニングの視点」を参照。

     

     もう1つの求められる取り組みは、探究的な学習である。教科等を横断した、社会的な課題に取り組み問題解決する学習のことで、具体的には1998年学習指導要領改訂で設定された「総合的な学習(の時間)」を指す。ゆとり教育を見直した2008年学習指導要領改訂でも、総合的な学習の時間は、児童生徒の生きる力を育てるための学習として継続的に取り組まれるべく残された。

     総合的な学習は各教科の学習に対比される形で登場したが、学習を通して資質・能力の育成を求めた2008年改訂では、総合的な学習だけでなく、各教科の学習にも資質・能力のとりわけ②思考力・判断力・表現力等の育成を求めた。資質・能力の②は、知っていること・できることをどう使うかという活用型の学習によって育てられるものと考えられ、全国学力テストのB問題に代表される活用問題を具体的なイメージとして、各教科に習得だけでなく、活用の学習をも求めたのである。こうして、習得・活用・探究というさまざまな学習の型(安彦, 2016)が求められたのである。

     

    4.GIGAスクール構想の批判へのリプライ

     GIGAスクール構想には批判的見解が多く出されている。その代表的なものに次のようなものがある。

     

      ①インフラだけ整備しても意味がない。どのような力をつけさせたいかや使用する教材の研究がもっと必要である。
      ②ICT機器を導入しても、すべての教員が授業で使いこなせない恐れがある。無駄な投資で終わる可能性が高い。
      ③子供がPCやタブレットに向かう時間が増えれば、教師との対話や自分の手で書くという時間が減る。書く力やじっくり文章を読むという読解力が落ちる。

     

     以下では、これらの批判に私の考えをリプライすることで、近年の学校教育改革全体の中で起こっている共通する問題があることを指摘したい。私はGIGAスクール構想にはまったく関与していないので、またICT教育の専門家でもないので、関係者のリプライだとは思わないでいただきたい。これらの批判は、「変わる日本社会」に向けた学校教育改革の取り組みへの批判と根幹で共通するものが多く含まれており、GIGAスクール構想への批判を見て他人事とは思えないところがある。

     ①についてであるが、これはすでに「1」で述べた通りである。子供たちにまずボールを投げさせたいのである。投げ方の説明は最小限でいいから、とにかく「ボールを投げよ」と言わねばならない。GIGAスクール構想は、教員や子供たちにICT学習環境(ボールやグローブ、グラウンド)を提供するインフラ整備である。

     どのような力をつけさせたいか。まったく馬鹿げた批判だ。情報教育や情報リテラシーの育成を通して、10年も20年も繰り返し議論されてきたことである。言わば、あまりの議論や研究の多さにお腹いっぱいの状態である。今回、GIGAスクール構想と同時期に出された政府の『教育の情報化に関する手引き』(注2)にも、新学習指導要領と関連づけて、「情報活用能力」が学習の基盤となる資質・能力となることが延々と説かれている。教材研究がもっと必要であることは言うまでもないが、これまでの膨大な蓄積を押さえるだけでも実践的にはあまりにも十分である。今求められているのは、そんなことはもういいので、早く「ボールを投げよう」ということである。そのためのインフラ整備である。

     ②について。ここで懸念されていることは、実際にかなり高い確率で起こりえると私も思う。しかし、である。教師が使いこなせないから、ICT学習環境の整備に待ったをかけるなどということがあっていいのだろうか。①で述べたとおり、必要性はさまざまな次元で、もうお腹がいっぱいになるほど出されている。整備する予算が組めないからと推進が遅れてきたものを、予算がついたら今度は、「教師が使いこなせるのか」「整備する意義をもっと考えよ」などと批判をしてブレーキをかけようとする。馬鹿らしくて議論にならない。

     そもそも、「変わる日本社会」に求められるICTの利活用を教員ができないから、などという理屈が通っていいものなのだろうか。教員は、子供たちが将来大人になって、「変わる日本社会」に適応して力強く生きていけるように育てるために日々教育しているのだ。教師が身につけられない力を、子供が身につけて育つということはあり得ない。教師にとって、これまで身につけることが求められてこなかった新しい資質・能力なので、そこは子供も保護者も大目に見る必要がある。その上で、とにかくあれやこれやと、教員と子供たちでボールを投げることが求められている。すべての授業・学習をICT学習にせよという話ではないのである。

     ③について。この手の批判はいつの時代にもある。19世紀後半のヨーロッパやアメリカの近代化初期において、科学や技術を教える実学的な専門職業教育の大学や学校が数多く設立された。工業化・近代化の過程で、このような実学系の大学・学校の新興は当然の流れであったが、それは政治・行政・専門職・学術等の中心言語であったラテン語や、古典語で聖書や文学などの教養を学ぶ中世以来の伝統的教育と激しく衝突するのも、また避けられない時代の必然的流れであった(橋本他, 2001)。同じボストンにあり、ノーベル賞受賞者の輩出ではハーバード大学に並ぶマサチューセッツ工科大学が、日本では「~大学」と訳されるものの、正式名称はMassachusetts Institute of Technology(MIT)とされCollege やUniversityを用いていない。ここにも、同じ時代的な背景があったと考えられている。しかし、今や古典語や古典教養を学ぶ学生はきわめて少なく、それで現代人が昔の人に比べて劣っていると議論されているわけではない。物理学や工学、医学などの近代諸科学の発展とともに世界諸国の近代化はあり、輝かしいノーベル賞受賞者の仕事もこの延長線上にあると言っても過言ではない。近代の発展を否定することは、現代の発展を否定することである。

     教師との対話や読解力が重要であることを誰も否定するはずがない。しかし、これまで行ってきた学習をまったく変えることなく継続させ、その付加としてICT教育を求めるならば、それは無理というものである。新たに加えるものがあるならば、捨てるものも必要である。分量的には減っても、新しいものを加味してその質を維持したり向上させたりする工夫はもっとなされていい。ICT学習環境を整備しながら、教師との対話や読解力の質を下げない努力をすることが必要である。

     

     GIGAスクール構想は、「変わる日本社会」に向けた必要な教育施策の一つに過ぎない。早く取り組みを前へ進めて、さまざまな教育的問題を解決していきたい。

     

     

    文献

    安彦忠彦 (2016). 習得から活用・探究へ 溝上慎一 (編) 高等学校におけるアクティブラーニング:理論編 (アクティブラーニングシリーズ第4巻) 東信堂 pp.62-93

    橋本伸也・藤井泰・渡辺和行・進藤修一・安原義仁 (2001). エリート教育 (近代ヨーロッパの探究4) ミネルヴァ書房

    溝上慎一 (2018). アクティブラーニング型授業の基本形と生徒の身体性(学びと成長の講話シリーズ1)東信堂

     

     

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