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(講話)「あの子はおとなしい性格だから」は無責任!(Part 2)-実践的ポイント

要点

  • 話すことや議論することが学習の一部であることを生徒に伝えることである。これを授業づくりの基本としてとらえる。指導のタイミングの基本は、コースや学期の「始め」にあるが、「繋ぎ」の指導や介入も重要である。それでも話をしない生徒に対しても、授業内の場面、タイミングで当該の生徒に指導・助言をすることが基本である。
  • 授業内で対応できない生徒は少なくとも、「話をするのが苦手な生徒」「そもそもやる気がない生徒」「発達障がいの診断を受けている生徒」の3タイプある。
  • 話をするのが苦手な生徒には、クラスのなかよりも、個別に指導や支援をするほうがいいかもしれない。できれば、生徒から目標をあげてくるのを辛抱強く待つ。授業で「今日はどうだった?」とときどき声をかけてあげることも大事である。
  • なぜ勉強しなければならないかがわからなくなっている生徒、勉強しようと思ってもできない、理解できない生徒、成績の良い生徒と比べられ卑屈になってしまっている生徒に、授業技術だけで対処できるとは思えない。彼らにとって学校や授業が学びの場になっていないことを真摯に受け止め、彼らから出てくる言葉や考えから彼らにとっての学びの場を作り直していくしかない。
  • 発達障がいの診断を受けている生徒たちへの基本的対応は、最大限発達障がい等に配慮しつつも、できるだけ特別扱いせず、一般の生徒たちと同じように扱うことである。
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    はじめに

     「 (講話)あの子はおとなしい性格だから」は無責任!(Part 1)」では、おとなしい、議論もできないような性格では、生徒は学校から仕事・社会へのトランジションを十分に乗り越えられないだろう。いくらテストでの成績がよくても受験学力が高くても、学力の三要素に照らせば、この態度の弱さは学力の低さと同義である。あたたかく関わりながらも、生徒の社会化を一歩でも二歩でも促すべく、指導や介入をしなければならない。そう論じた。
     この手の指導や介入には留意すべきポイントがいくつかある。本ページではそれについて述べたい。大学でこの問題をどう扱えばいいか、まだ考えがまとまらないので、ここで述べるものの対象は主に中学高校生である。
     このレベルでの実践的議論に正解はないと思う。学校の種類や特色、対象となる生徒の状況等によって、対応はさまざまであって然るべきである。あくまでこの問題に取り組む学校現場での実践やそこで出てくる考えをふまえての私見を述べるにすぎない。このように対応しているというほかの例があれば、全国の教育関係者と共有したいので、是非教えてほしいとお願いもしておく。

     

     

    第1節 基本は授業づくりとして

    (1) 「始め」と「繋ぎ」で指導・介入をおこなう
     授業づくりのあらゆる側面に通じる話だが、指導のタイミングの基本は、コースや学期の「始め」にある。具体的には、年度の始めか、2学期や後期などの学期の始めである。
     大学の例でいえば、私語で教室全体がすでに騒がしくなってしまっている授業で、「うるさい、静かに!」といくら怒鳴っても、それで静かになるのはせいぜい5分か10分である。時間が少し経てば、また騒がしくなる。また怒鳴る。これを繰り返す。教師は授業に集中できない。「最近の学生は~」と学生のせいにすることもある。学生の私語は問題だが、学生のせいにするだけではこの問題は解決しない。
     私が問題だと指摘したいのは、当該の教師が、学期はじめの2~3回くらいまでの授業で、少数の学生が私語をするのを見逃してきたことである。火は小さいうちに消さねばならない。火が大きくなってから「うるさい、静かに!」といくら怒鳴っても手遅れである。わかりやすくいえば、その教師はすでに学生たちになめられているのである。私もかつて非常勤先の大学の授業で、この手の問題を経験したことがある。もちろん、なめられてしまったからといってそれで注意しない選択肢もない。苦しい。
     私語で騒がしくなる可能性のある授業だとわかっているなら、コース初回の授業で、学生たちに授業内でのルール、求める学習内容や予復習のしかたなど、しっかりイントロダクションをしておくべきである。それにしたがって、私語をしているのを見つけた場合にはひるまず、間髪入れずに注意をする。介入をする。ここが肝であると思う。これくらいはいいかと見逃していると、火が大きくなって、始末できなくなるのはすでに述べたとおりである。
     本ページで問題にしている「おとなしい生徒が話すこと」についても、考え方は同じだと思う。「話す」力は「(用語)学力の三要素」に照らして学力の一部であることを、年度や学期始めにしっかりイントロダクションをする必要がある。せっかく高い能力や知識、考えをもっていても、話すのが苦手だ、他者に伝えたり他者の考えに触れて議論したりするのが苦手だということでは、大学で、ひいては仕事・社会で苦労する可能性が高いことはわかっている。これを生徒に伝える必要がある。教育の転換期であり、話すことがなぜ重要なのかを理解しない生徒もいるだろうから、その意味では、学校や学年で、ホームルームでオリエンテーションをしっかりおこなったほうがいい。多くの場合、授業で一教師が説くだけでは限界がある。学校や学年といった組織的な取り組みが求められる。
     「繋ぎ」の指導や介入も重要である。「始め」は良くても、2~3週すると、生徒はすっかりだれている、頑張ろうとしなくなった、という報告が少なくない。
     私の授業では、イントロダクションでは少し時間をかけて、話すことの意義、ひいてはアクティブラーニングができることが学力の一要素であることを説く。将来求められる力であることはもちろんのこと、授業内の学習においても有効な技法であることを説く。話すことで、他者の理解や考えに触れることで、自分が理解しているかを確認でき、自分の頭のなかを整理していくことができるからである。
     イントロダクションで用いたスライドや話を、私は毎回授業の冒頭かアクティブラーニングをする手前のタイミングで示して確認するようにしている。同じスライドや話なので、これにかける時間は1分か2分もないくらいである。おとなしい学生が頑張っているときには大げさにほめるようにしている。おとなしい学生の話を聞き出してあげることも、議論やリーダーシップの力の一つになることもタイミングを見て繰り返し伝える。前に出てきて発表のときには、発表者には、議論の3分や5分が長かったか、短かったか、議論ができたか、どのように過ごしたかなどを訊き、話してもらうようにもしている。取り得るあらゆる機会を使って、質の高い話を目指すことを促す、動機づける。
     コースの3分の1や真ん中くらいでは、話すことについてのグループワークを1、2回入れるようにしている。話すことをどのように頑張っているか、どこでつまずきどう克服しようとしているかなどを学生同士で共有させるのである。話すことが得意な生徒でも、内容によってうまくできたりできなかったりということはあるから、そのようなときどうしているのかを出してもらう。議論の内容はワークシートに書いてもらうので、私は次の授業でいくつか有用なものをフィードバックして全体で共有する。学生自身の奮闘や問題の克服、その姿勢は、教師の一般的な説明以上に学生たちには響く。こうして、学生はうまく話せることを目指して頑張ろうとするし、そのために授業内容にも深くコミットするようになる。授業外学習も課しやすくなる。いろいろな学習が連動してきて、理想的な学習状況となる。
     これの中学高校版があるはずである。このような授業は大学よりも中学高校のほうがやりやすい。

     

    (2)授業内での指導・助言で収めることまで含めて基本としたい
     (1)で述べたことは、教師がクラス全体に向けておこなう授業づくりとしてのものである。これで、話すことや議論することがクラス全体である程度うまくなされるならば、けっこうなことである。「話すことが苦手な生徒の考えを聞いてあげよう。引き出してあげよう。それも議論する、あるいはリーダーシップの力になるのだ」ということを説いて、生徒がそれをうまく理解して頑張るならば、けっこうなことである。おとなしい生徒のいることが他の生徒の能力発達にもつながる。仕事・社会にはいろいろな人間がいるのだから、この状況は教育的に決してマイナスのものではない。
     それでも話をしない生徒は出てくるだろう。生徒の性格や状態にもよるが、基本は先の大学での私語の話と同じで、その状況、タイミングで当該の生徒に指導・助言をすることである。それで話す、議論するようになれば、まだ授業づくりのレベルでの対応だといえる。

     

     

    第2節 授業内で対応できない生徒に対して

    (1)話をするのが苦手という生徒
     授業内で簡単にきない生徒が少なくとも3タイプいる。この生徒たちへの対応こそ、これからの新たな教育課題である。
     まず、話そうという意思はあるのだが、話をするのが苦手で聞いているだけ、あるいは話をしようとしても議論に入っていけない、そのような性格が問題となる生徒である。学力の三要素やトランジションが標榜される以前は、多くの場合、見逃されていた生徒たちである。そもそも話したり議論したりする機会が授業のなかでは少なかったから、彼らのそのような問題はほとんど露呈しなかったし、たとえ露呈する場面があったとしても、「成績が良い」「おとなしい性格を認めてあげたい」といった理由で、教師はどちらかといえば積極的に見逃していた(「(講話)あの子はおとなしい性格だから」は無責任!(Part 1)」を参照)。
     このような生徒たちに、全体の場で名指しで指導したり助言したりするのは望ましくないかもしれない。その生徒が極度に不安を覚えたり苦しくなったりすることは、授業が安全・安心の場であるべきだという考えに照らして望ましくないし、教室全体の雰囲気も悪くなるかもしれない。
     しかし、である。ここが大事なポイントだと思うのだが、それで教師があきらめてしまったり、「その生徒はそういう性格の子なんです」といって受容しすぎたりすると、結局はその生徒の(三要素の観点から見た)学力を伸ばすことをあきらめたことに相等しいことになる。その生徒のトランジションを見据えた発達をあきらめたことに相等しいことになる。性格は、幼少期よりあまたの経験を積み重ねて形成されたもので、そんな容易に変わったりするものではない(「(講話)パーソナリティは基本的には変わりにくいが…」を参照)。だから、いくら指導や支援をしても、結果負け戦になることが少なくないこともどこかでは知っておかねばならない。しかし、「負け戦とわかっていても戦わねばならないときがある」ではないが、放っておいては、もしかしたら成長したかもしれない生徒の可能性をつぶしてしまうこともある。ギリギリの判断や覚悟が求められる瞬間であるが、私は指導や支援することをあきらめないでほしいと説きたい。
     クラスのなかで指導・助言することが難しい場合には、機会を見つけて当該生徒を個別に指導や支援することはあってよい。個別に指導・支援ができるのは、中学高校のよいところである。多くの大学ではこれができない。生徒の状況を受容的に聞き、小さなことでいいから前へ進むための努力をするように指導・支援する。できれば、生徒から目標をあげてくるのを辛抱強く待ったほうがいい。教師はすぐ助言をしてしまう悪い癖がある。授業で「今日はどうだった?」とときどき声をかけてあげることも大事だと思う。

     

    (2)そもそもやる気のない生徒
     次に、そもそもから、授業に参加する気のない生徒に対してである。講義であれば寝ておけばよかったものを、グループワークをするようにいわれるから、やる気のない態度を露骨に表す。教師も講義で寝ている分には気にならなかったものを、グループワークで露骨にやる気のない態度を見せられるのだから、苛立ちを隠せない。
     やる気のない態度を静かに見せられる程度ならまだかわいいものだが、「うざい」「面倒だ」「なんでこんなのやるの~」などと発する生徒もいる。クラスに3~4人こんな生徒がいて、それが教室全体の雰囲気を悪化させていた授業も見たことがある。「アクティブラーニングはダメだ」というような話は、こういう状況から出てくることが多い。後ろで見ていて、教師のご苦労に敬意を表する瞬間であるが、息苦しい。
     「アクティブラーニングはダメだ」という話でないことは、その現場にいる者なら誰でもわかることである。つまり、これはアクティブラーニング以前の問題だからである。この生徒たちにとって学校や授業が学びの場になっていないのであって、当該の生徒たちはアクティブラーニングを課せられることによって真の姿を表しただけなのである。もともとそういう姿であったものが、アクティブラーニングによって可視化されただけなのである。
     ここから先は、まさに教育の転換、(三要素やトランジションをふまえた)学力の転換をどの程度本気で受け止めるかによると思う。そもそも学校とはどのような場であり、(学校)教育とは何なのかの理解が問われる状況だともいえる。「生活のために教師をしています」「すべきことはしています」といったような、生徒の学びと成長よりも自身の信条や都合を優先させるような態度では、この状況に立ち向かっていく元気は出ないだろう。大学人も同じである。研究の片手間に授業や教育をおこなうくらいの気分では、この状況に立ち向かえるはずがない。もちろん、それで研究はしなくていいという話をしているつもりはない。大学にもよるが。教師も人間であり、家庭や地域、同じ学校内でも他のさまざまな社会的役割や状況、プレッシャーがあるだろうから、一概にそのような態度を非難できるものではない。私自身も偉そうにいえるほど立派なわけではない。
     「それでも」とことばを続けていくあたりに、この話の落としどころがあるのかとよく思う。実態や現実を目の当たりにして、ひるみながらも、自身の状況と照らし合わせて葛藤や苛立ちを抱えながらも、言い訳はいろいろありながらも、「それでも」と思っていけるかである。
     私は、学校は、生徒が将来力強く仕事をし社会生活を営む大人になるために、学び成長する場であると、こういう状況で正論をいわなければならないと思っている。先生方の事情もいろいろわかるのだが、「それでも」と、この正論をいわなければならないと思っている。もちろん、私の個人勝手な夢想ではない。「学校は、生徒が将来力強く仕事をし社会生活を営む大人になるために、学び成長する場である」というのは、教育基本法で謳われていること(注1)である。私は、それをトランジション(「(理論)学校から仕事・社会へのトランジションとは」を参照)に向けた学校教育の再構築と説明している。

     

    (注1)『教育基本法』では、学校教育の目的・目標を次のように定めている。
    (教育の目的)
    第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた 心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
    (教育の目標)
    第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われる ものとする。
    一  幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
    二  個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、 勤労を重んずる態度を養うこと。
    三  正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に 寄与する態度を養うこと。
    四  生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
    五  伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を 養うこと。

     

     なぜ勉強しなければならないかがわからなくなっている生徒、勉強しようと思ってもできない、理解できない生徒、成績の良い生徒と比べられ卑屈になってしまっている生徒、そのような生徒たちに授業技術だけで対処できるとはとうてい思えない。名講義をおこなうくらいのことで、彼らが改心するのだったら、もうとっくに改心しているはずである。彼らにとって学校や授業が学びの場になっていないことを真摯に受け止め、彼らから出てくる言葉や考えから彼らにとっての学びの場を作り直していくしかない。
     具体的には、年度や学期始めのオリエンテーション、ホームルームや学校行事(文化祭・体育祭・研修旅行)、キャリア教育などの機会で取り組むことが考えられる。一授業者のせいにしている間は、この問題はなかなか解決されない。学校や学年主任の主導や連携のなかで、組織的にこの問題に立ち向かっていかなければならない。言うは易しだという批判は当然あろうが、取り組むしかない。今この問題に真正面から取り組んでいる学校の成果も待っている。私が関わって取り組んでいる事例も少なくとも3つある。今はここまでしか話ができないが、近い将来、報告する機会をもちたい。

     

    (3)軽度だが発達障がいの診断を受けている生徒
      最後に、軽度だが発達障がいの診断を受けている生徒や、診断を受けていなくてもその傾向が高いと認められる生徒に対してである。
     まず、発達障がいや特別支援の専門家、関係者がこの問題への対応のしかたを発することが基本であると考えていることを述べておく。このレベルの議論になると、私では専門的に答えられない限界がある。しかし、学校現場では進行形でこの問題が起こっており、どのように対応すべきかの考えが求められている。新しい情報が入れば、すぐに更新するので、その上での私の考えとしてほしい。
     この生徒たちへの基本的対応は、最大限発達障がい等に配慮しつつも、できるだけ特別扱いせず、一般の生徒たちと同じように扱うことではないかと思う。
     この考えのもっとも根幹に、この生徒たちが特別支援学校ではなく、一般の中学・高校に在籍している事実がある。発達障がい等には最大限の配慮が必要であるが、その上でできるだけ特別扱いをせず、学校生活を送って学び成長してほしいという親の願いがそこにある。そして、この生徒たちの多くは一般の生徒たちと同様に大学へ進学し、そして就職することを希望する。ソーシャルインクルージョン(注2)の社会になってきたとはいえ、まだまだ社会には厳しい現実が山ほどあるから、生徒は将来できる だけ自律的に仕事をし社会生活を営める大人になれるように、学び成長しなければならない。親の願いはここにある。学校では特別扱いされても、仕事・社会ではそうならない場面のほうが多い。どうすればこの生徒たちを、少しでも自律的に仕事し社会生活を営める大人へと育てられるかを考えなければならない。発達障がい等に配慮するのは、このトランジション(仕事・社会への移行)の前提を最大限ふまえた上でのことではないか。これをふまえていれば、当該の生徒に特別扱いをして「君はアクティブラーニングしなくていいよ。」とはとてもいえないはずである。それは教育放棄である。

     

    (注2)障がい者や社会から排除されている人たちを、社会の中で共に助け合い参加させていこうとする考え方。

     

     発達障がいの生徒に対する話ではなかったが、ある講師が研修会で、
    「話すのが苦手な生徒は、無理しなくていい。ひとりグループもありだ。」
    と説いていたのをよく思い出す。現場の教師たちは、これを聞いてほっとしていた。私はそれに対して「違うだろう」と言いたかったが、言わずに飲み込んだ。しかし、この考えはこの講師に限らず、けっこう多く耳にする。「クラスが生徒にとって安心・安全の場である」というフレーズがその根拠として示されることも少なくない。間違えていると思う。
     学校のなかでは「ひとりグループもありだ。」と言ってもらえても、仕事・社会でそれを言ってもらえる場は多くないだろう。障がいをもっているからこそ強くならなければならないという考え方もある。ここでまた何のための教育かという問題に突き当たる。私たちは、この問いに何度も何度も答えなければならない。
     生徒の発達障がいや傾向の程度によるし、保護者や支援員の補助も必要なことはあるだろうが、一教師ができることは、基本的には(1)の「話をするのが苦手という生徒」への対応となるかと思う。グループワークをしなくていいとは(絶対)いわない。そこですべきことは、他の生徒と同じように伝える。一歩でも二歩でもそこで課題に取り組む努力、話す努力を促すことが、授業外での個別支援を含めて必要だろう。100点を目指さなくていい。30点が35点に、40点が50点になることを目指して、頑張ったことを褒めてやればよい。他の生徒が当該生徒の話を引き出したり支援したりする仲間作りが構築できれば最高である。他の生徒の力にもなる。考えられることから取り組んでいきたい。

     

     

    最後に

     この問題は、アクティブラーニング改革の象徴的な山場だと思ってきた。理想的な答えはあっても、目の前の現実は厳しい。厳しすぎる。しかし、だからといってこの問題から逃げることは、生徒の学校から仕事・社会へのトランジションを見捨てることに相等しい。「学校とは何か」「教育とは何か」の基本的命題から逃げることに相等しい。ここを逃げて、教師として生徒の前に立っていられるのか。「負け戦とわかっていても~」の例のフレーズが、最後は落としどころとして頭に浮かぶ。100点を目指せといっているわけではない。この現実に「向き合う」ことが大事なのだということだろう。
     生徒の事情をふまえて、「この子は学校に来ているだけでも十分」「今はこの子は指導すべきタイミングではない」という判断が学校現場にはある。それは重要だと思う。「機が熟する」ではないが、無理に指導や支援をしていくことが何にも増して重要だという考えを私はもっていない。学校現場の判断を尊重したい。しかし、その判断はいつまで続くのか。トランジションに向けたその生徒の学びと成長への関わりは次いつやってくるのか。そのまま卒業してしまったではないか。こう聞き返したくなるような状況があることも事実である。引き続き考えていきたい。

     

     

     

     

     

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