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本ページは、アクティブラーニングの近接概念である「主体的な学習」を取り上げて定義をおこない、アクティブラーニングとの関連を検討するものである。というのも、アクティブラーニングを説明するとき、あるいは関連の説明をするとき、至るところにこの「主体的な学習」が併せて使用され、いったい主体的な学習とアクティブラーニングとはどのように関連し、異なるものなのかを多くの者が疑問に思い、その問題を解決したいと思ってきたからである。
説明に入る前に、両用語について少し整理をしておく。
まず、アクティブラーニングも主体的な学習もともに、非常に抽象度が高く曖昧な用語であり、使用者がさまざまな意味を込めて都合よく用いてきた一般的用語(注1)であったことをおさえておこう。しかし、ボンウェルとエイソン(2017)の古典的定義であれ、私のそれを発展させた定義であれ(詳細は「(理論)大学教育におけるアクティブラーニングとは」を参照)、初等中等教育等の学習指導要領改訂に向けた中央教育審議会答申の「主体的・対話的で深い学び」であれ(詳細は「(理論)初等中等教育における主体的・対話的で深い学び-アクティブ・ラーニングの視点」を参照)、アクティブラーニングはもはや一般的用語ではなく、概念化された用語(=概念的用語(注2))として理解すべきである。
指す中身の多様さは、これだけ包括的な用語であってそれを定義する論者も複数いることから避けられないことだが、このこと自体は問題ではない。そもそも、言葉には複数の意味(定義)があり、人は言葉によってコミュニケーションを取るとき、人の用いているある言葉がいったい何を指すのか、その意味(定義)を自覚的・無自覚的に考えて話を理解しようとする。一般会話においても学術的にも、言語活動とはそのようなものである。結局のところ、使用者が「この定義をもってこの用語を用いています」と言えばいいだけのことである。もし、ある論者がどのような定義をもってアクティブラーニングの用語を用いているかを示さずに話したり書いたりすることがあるならば、聴者や読者はその者を、作法に則らない不誠実な講演や本・論文だと見なして、帰るなり別の本を読むなりしたほうがいい。時間の無駄である。
(注1)ここでの一般的用語とは、定義や概念化がなされていないにもかかわらず、多くの者が日常で、あるいは学術的な議論のなかで用いている用語を指す。
(注2)「概念」の定義や説明については「(用語集)概念・理論」を参照。
他方、主体的な学習もこれまで一般的用語であったが、初等中等教育の学習指導要領改訂に伴って、「主体的・対話的で深い学び」が示され、概念化に向けた作業がなされたといえる。そこでは、「主体的な学び」(注3)は次のように定義されている(詳細は「(理論)初等中等教育における主体的・対話的で深い学び-アクティブ・ラーニングの視点」を参照)。
主体的な学び 定義 学ぶことに興味や関心を持ち、自己のキャリア形成の方向性と関連づけながら、見通しを持って粘り強く取り組み、自己の学習活動をふり返って次に繋げる学び。 |
(注3)本ページで扱われ定義されるのは「主体的な学習」としておき、答申の「主体的・対話的で深い学び」の一つとしての「主体的な学び」とは区別する。本ページでは、答申の「主体的な学び」をカギカッコで表現する。
この定義には、主体的な学習に関連するポイントがあまねく盛り込まれており、かなりよくできているように見える。これはこれでいいと思う。他方で、この定義を受けて、教育関係者が「主体的な学びとはそういうものだったのですか。よくわかりました」となるかというと、それはまた別の話である。この定義を理解する一つ手前の解説が必要ではないか。
本ページでは、一学者の個人的な見解ではあるが、一つ手前の「主体的」あるいは「主体性」に戻って用語の定義をおこない、その上でそれをふまえた主体的な学習の定義をおこなう。そして、その観点から見たアクティブラーニング、上記の「主体的な学び」との関連を考えてみようと思う。
主体的な学習の「主体的」の意味を考えてみよう。
『日本国語大辞典(第二版)』(小学館, 2001)では、「主体」とは、「他に対して、働きかける当のもの。認識に関しては主観と同義であり、実践的には意識と身体を持った行為者をさす」とされる。同じ『日本国語大辞典 (第二版)』で、「主体的」とは、「他に強制されたり、盲従したり、また、衝動的に行ったりしないで、自分の意志、判断に基づいて行動するさま」の意味とされる。
私の言葉で説明すると、ポイントはまず、他に働きかける行為があり、その行為の起点になるものが「主体」と呼ばれることである。次いで、働きかけの先にある「他」とは、すなわち行為の終点のことであり、それは「対象」あるいは「客体」と呼ばれるものである。こうして、ある行為がおこるとき、そこには行為の起点としての「主体」と行為の終点としての「客体」がある。ひいては、「主体-客体」の関係性があると理解される。飯島(1992)は、客体のないところで主体は主体となりえず、主体は客体との関係においてはじめて主体となると述べるが、これはこのような行為における起点と終点との話でもある。以上をまとめて、「主体的」とは、
行為者(主体)が対象(客体)にすすんで働きかけるさま |
と定義される(図1を参照)。
図1 「主体」「主体的」とは
この「主体的」にどのような英語を当てればいいだろうか。これは案外難しい。主体がsubjectだから、主体的はsubjectiveだと表現する人がいるが、これはおそらく正しくない。subjectiveは「主観的」と訳されるのが一般的で、私たちが教育で扱っている「主体的」は、上記の『日本国語大辞典』で定義された「実践的には意識と身体を持った行為者をさす」のほうである。
ここで重要な視点となるのが、そもそもその「主体的」を作り出している行為者を何と表現するのかということである。この行為者を表現する言葉はいくつかあるが、このテーマで筆者の考えるもっとも適切な言葉は、「行為主体(agent)」である。行為者を「行為主体(agent)」と置ければ、その形容詞としての「行為主体的(agentic)」、状態を表す「行為主体性(agency)」を続けて置くこともできる。心理学や教育学では、「行為者」をagentと呼んで、あるいは「行為主体的」をagenticと呼んで、自己を起点とする行為を説明、概念化することがあるし(たとえばBandura, 1989; 2001; Ponton, et al., 2005; Ryan & Deci, 2000; Schwartz, Côté, & Arnett, 2005 ; Tomasello, 1995)、社会学での後期近代をテーマとする研究では、社会構造(structure)の進展において、社会的制度やシステムに必ずしも従属しない個人の主体的役割を「行為主体性(agency)」と呼んで、一大テーマとして研究がなされている(Côté, & Levine, 2002)。以上のような研究をふまえて筆者は、これまでの一般的に使用されてきた「主体的」に対して、「行為主体(agent)」「行為主体的(agentic)」「行為主体性(agency)」を用いていきたいと考える(図2を参照)。
なお、以下では、行為を省略して単純に「主体的(agentic)」「主体性(agency)」と表現することもあるが、その場合でもそれらは厳密には「行為主体的」「行為主体性」を表すものであると理解してほしい。
図2 行為主体(Agent)が対象にすすんで働きかける状態としての行為主体的(Agentic)・行為主体性(Agency)
(1) 定義と主体的な学習スペクトラム
第1節をふまえて主体性とは、「行為者(主体)から対象(客体)へとすすんで働きかけるさま」と定義される。主体的な学習は、その対象が(学習)課題である。したがって、「主体的な学習(agentic learningあるいはlearning agency)」とは、
行為者(主体)が課題(客体)にすすんで働きかけて取り組まれる学習のこと |
と定義される。
このように定義すると、アクティブラーニングをはじめ、その他実に多くの学習論が主体的な学習のなかに包含されることになる。つまり、このように定義される主体的な学習は、アクティブラーニングより大きな概念だということになる。もっとも、先の学習指導要領改訂に向けた答申では、「主体的な学び」は「アクティブ・ラーニング(の視点)」の一つとしてなかに内包されている。それについては最後に述べる。
それにしても、これだけ大きく「主体的な学習」を定義すると、この定義に合致してくるさまざまな学習論が実に多様であり、一筋縄で理解することが難しいことがわかってくる。たとえば、内なる興味・関心をもって取り組むという意味での主体的な学習(たとえば「この課題に取り組むのはおもしろい」)や、学習方略(たとえば「難しい問題は後回しにして、易しい問題から解答する」)を用いて行為者が自己調整をしながら取り組むという意味での主体的な学習、新しい知識を既有知識や経験と繋げるという意味での主体的な学習、中長期的な目標達成、アイデンティティ形成、ウェルビーイングを目指して取り組む主体的な学習(たとえば「しっかり勉強して、将来立派な医者になりたい」など)など、さまざまな主体的な学習と見なせる学習がある。
いずれも定義には合致しており主体的な学習と呼ばれていいのだが、それらを並べたとき、相当性質の異なるものが並列・内包されていると感じることも事実である。もう少し下位分類をしてスペクトラムとしないと、すっきり理解した気にならないのではないか。
図3 主体的な学習スペクトラム
本ページでは、さまざまに包含される主体的な学習を大きく整理するために、「(I) 課題依存型(task-dependent)」「(II) 自己調整型(self-regulated)」「(III) 人生型(life-based)」の三つの観点を導入し、三層から成る主体的な学習スペクトラムとして理解しようと思う(図3を参照)。
(2) 三層から成る主体的な学習スペクトラム
課題依存型の主体的学習 課題依存型の主体的学習とは、「この課題に取り組むのはおもしろい」といった例に見られるように、行為者の課題への働きかけの力点が、行為者よりも課題のほうにあるような学習を指す。学校教育の文脈においては、学習それ自体が多くの生徒学生にとって与えられる、課せられるものであることから、この課題から発現する主体性から考えることが、主体的な学習論の基本であるといえる。「主体的」な学習のすべてが主体それ自体から発現するわけではないということが、ここでは重要な理解となる。詳しく説明しよう。
主体(subject)は客体(object)との関係においてはじめて主体たり得ると述べたように、またsubjectには「従属する」という意味があるように、ここでの「主体的」とは、どちらかといえば主体(行為者)が自らつくったものというよりも、課題(客体)を与える授業の雰囲気や与えられる課題(客体)の質(おもしろさなど)に促されて、課題(客体)に働きかける主体(行為者)が発現する状況を表している。このような、課題に促されて「主体的」が発現する力学は客体依存的であり、ひいては「課題依存的」と呼べるものである。
課題依存的な主体的学習は、「主体的な学習」だといいながらも、やはり課題依存の受動性を露呈する。学習課題を課すとき、教師は生徒学生の興味・関心を引くものを精いっぱい工夫して提供しなければならないが(Stefanou et al., 2013)、それでも、すべての生徒学生に興味・関心をもたせるのは現実的に難しい(Ryan & Deci, 2000)。なかには興味・関心を引くものではなくても、重要な学習課題として課さなければならないものも多い。この意味において、主体的な学習は、課題に依存して発現する主体的学習だけでなく、課題に取り組む主体の属性(パーソナリティや認知のしかた、能力や自己効力感、学習方略、時間的展望等)をふまえての主体的学習をも取り扱わねばならない(Rotgans & Schmidt, 2011; Ryan & Deci, 2000; Zimmerman, 2008)。ここで登場するのが、自己の観点である。これまでの主体的な学習論のほとんどは、課題に取り組む際の自己を多かれ少なかれ問題として、望ましい、効果的な学習を論じてきた。
自己の観点 自己(self)の働きには、“I myself think that…(私自身はこう思う)”という「強意(intensive)」と、”I think about myself(私は自身のことを考える”という「再帰(reflexive)」とがある(飯島, 1992)。
強意は、“I think that…”と言えば文意が伝わるところを、あえて “I myself think that”と言うときに用いられる。そこには、「他の人はどうか知らないが、この私一身に関していうならば」という、他とは区別して自身の一個存在をクローズアップさせる、良くも悪くもそれ自体という自他分別の強調がある。他方で再帰は、動作の対象が動作をおこなう者自身であることを示すときに用いられる。省察(リフレクションreflection)や自己の対象化を問題とするときに用いられる働きでもある。以下では、自他分別の「強意」の働きと、自己対象化の「再帰」の働きとを説明していく。
一般的な傾向として、自己を問題とする主体的な学習論のほとんどは、課題遂行に関わる自己の強意と再帰の働きを両方組み込んで学習を論じている。次に、「自己調整型の主体的学習」として提示するものがそうである。他方で、再帰とは自己の対象化のことでもあるから、再帰の程度が強まると、そこには自身の過去や未来の事象がより多く絡んできて、時間的展望(「(用語集)時間的展望」を参照)を伴った、言い換えれば人生を背負っての学習となってくる。これを以下では「人生型の主体的学習」と呼ぶ。人生型は、課題遂行に関わって自己が問題となる点で自己調整型と同じであるが、時間的展望がどちらかといえば自己調整型よりも長いので、その点で自己調整型と区別される。
自己調整型と人生型の主体的学習 自己調整型の主体的学習とは、学習目標(「毎日単語を10個覚えよう」「難しい問題でもあきらめずに取り組もう」など)や学習方略(「声を出して単語を覚える」「難しい問題は後回しにして、易しい問題から解答する」など)、メタ認知(「自分の考えの矛盾に気づく」「課題によって学習方略を使い分ける」など)を用いて、自身(自己)を方向づけたり調整したりして課題に取り組む学習を指す。
再帰の働きが強まる人生型の主体的学習とは、中長期的な目標達成(「英検1級に合格する」「将来弁護士になる」など)やアイデンティティ形成(私は何者か)、ウェルビーイング(幸福感)を目指して課題に取り組む学習を指す。なぜ学ぶのか、学習を通してどのような自分になりたいのか、といった学習の意味が、自身(自己)の過去や未来の事象に関連づけて作り出され(時間的展望)、それが今ここ(here and now)の時間空間的な意味ともなって学習に反映される。この主体的な学習は、過去から現在、そして未来へと、個人がどう生きていくかという自己物語を学習に反映させる構図になっており、「人生型」の主体的学習と呼べるものである。
自己調整型の主体的学習は、(他の生徒学生とは異なる)自身の学習目標を設定したり、自身の学習方略を使用したりして課題に取り組むものであるから、そこにまず自他分別の強意が働いていることを認めることができる。加えて、学習目標にしたがって、あるいは学習方略を使用して、自分で自分(自己)の学習を調整するという再帰の働きも認めることができる。メタ認知は自身の認知をメタ的に認知する、操作することを指すものであるから、ここにはもっと直接的に再帰の働きを認めることができる。まとめて、自己調整型の主体的学習には、自己が自己たり得るときの自他分別と再帰が学習で働いているといえる。
他方で、人生型の主体的学習にも同様の自他分別と再帰の働きを認めることができる。しかしながら、自己調整型の主体的学習と比べると、とりわけ再帰の働きにおいて自己に過去や未来の事象が多く関連づけられ、その分人生を背負っての自己、それをふまえた課題への取り組みとなっている。その結果、課題遂行にあたっての自己の重みは、自己調整型の主体的学習よりもはるかに大きなものとなる。ひいては、自己調整型から人生型にかけて、主体的な学習は人生を背負った、より深いものになっていくといえる。総じて、「主体的」に伴う自己の自他分別の強意、再帰の働きをふまえて、主体的な学習が、(I) 課題依存型、(II) 自己調整型、(III) 人生型へスペクトラム的に深まっていくと考えられる。
もちろん、主体的な学習が深まれば、それで必ず学習の質が高まるわけではない。ここは分けて考えなければならない。
即自的・対自的な学習として 梶田(1996)は、サルトルをふまえて、学習を即自的なものから対自的なものへとしていくことで、人間としての深い育ち、成長発達に至ると主張する。「即自的」とは、自分自身の存在(あること)に対する気づきや反省を欠いた、ただ自身があるという存在のしかたを指す。これに対して「対自的」とは、自分自身の存在に気づき、自分自身と対話し、ときには自分自身に背くような反省的な存在のしかたである。梶田は、「即自的」「対自的」の観点を用いて、次のように教育を通しての子どもの深い育ち、人間としての成長・発達を論じる。
「学校での勉強は大事なことであるが、それはその人が利用することのできる「道具」を身につけていくことに他ならない。知識も技能も、その意味での「道具」でしかないのである。高度で複雑な知識や技能を身につけていくことは、現代社会で自分の役割を果たしていく上でも、自分の人生を豊かなものにしていく上でも不可欠のことである。しかし「道具」を適時適切に使いこなしていくためには、その人自身が賢くなくてはならない。「道具」が身につくこと以上に、その「道具」を使う「主体」が育つということが重要な意味をもつのは、このためである。」(梶田, 1996, p.4)
「教育のあり方としていえば、知識・理解・技能を身につけていくだけでは即自的な育ちでしかない。これらを身につけていくと同時に、自己認識・自己対話・自己統制といった対自的な力が育っていってはじめて、人間としての成長・発達といえるのである。・・・(中略)・・・対自性を抜きにしたままどのように強力な力を獲得したとしても、それは強力な「道具」を手に入れたというだけであって、人間そのものとして成長・発達したとはいえないのである。」(梶田, 1996, pp.18-19)
梶田はこの論のなかで、「人間としての「主体」のあり方を<自己>と呼ぶことがあるのは、そこにこうした対自性をはらまざるをえないからである」(梶田, 1996, p.18)と述べる。とどのつまり、梶田にとっての「即自的-対自的」の観点は、主体的な学習を自己の観点から理解するものである。
本ページの主張に重ねれば、要は、ただ主体的な学習であれば、どんなものでもいいというわけではない。課題依存型は「即自的」であるし、自己調整型でも自他分別に関する働きは「即自的」である。これらは、梶田にいわせれば、道具を身につけただけのことである。学習が生徒学生の深い育ち、人間としての成長・発達に至るには、「対自的」な働きを学習に加えなければならない。それは、自己調整型あるいは人生型における再帰の働きに相等しい。
ここでは、アクティブラーニングと新学習指導要領における「主体的な学び」を取り上げて、上記で説明してきた主体的な学習との関連を検討する。
(1) アクティブラーニングとの関連
私はアクティブラーニングを下記のように定義してきた。ここには、アクティブラーニングとしての能動的な学習が、具体的には活動(書く・話す・発表する等)と認知プロセスの外化を指すことを示している。活動と認知プロセスの外化の十分な協奏こそが充実したアクティブラーニングを作り出すとしている(詳細は「(理論)大学教育におけるアクティブラーニングとは」を参照)。
一方向的な知識伝達型講義を聴くという(受動的)学習を乗り越える意味での、あらゆる能動的な学習のこと。能動的な学習には、書く・話す・発表するなどの活動への関与と、そこで生じる認知プロセス(*)の外化を伴う。 |
*認知プロセスとは、知覚・記憶・言語・思考(論理的 / 批判的 / 創造的思考、推論、判断、意思決定、問題解決など)といった心的表象としての情報処理プロセスのことである。
図4 主体的な学習にアクティブラーニングを位置づける
図4は、このように定義されるアクティブラーニングを、主体的な学習に位置づけるならこのあたりだろうということで図示したものである。多くの場合アクティブラーニングは、第I~II層の主体的な学習、すなわち「課題依存型」「自己調整型」の主体的学習に対応するものと考えられる。
まず、教師から課題が与えられて、生徒学生が興味・関心をもって、すなわち「課題にすすんで働きかけて」、(書く・話す・発表するなどの)活動へ関与する、認知プロセスを外化する、という主体的な学習の姿がある。これは、第I層「課題依存型」の主体的な学習である。しかし、課題依存型の主体的な学習は、言葉どおり課題依存である。課題自体に興味や関心をもてなければ、あるいは授業者が生徒学生のそのような課題への興味・関心を引き起こせなければ、「課題にすすんで働きかけ」る取り組みは失速するのである。課題へ興味・関心をもたせることは教師の務めであるが、それだけで実際の教授学習は成り立たないことは、内発的動機づけをふまえながらも自己決定理論や自己調整学習が理論的に発展してきたことを見ればわかる。高校や大学の授業となると、いっそうこのことがいえる。
自己決定理論や自己調整学習等に共通するのは、自己の観点(自他分別・再帰)である。すなわち、生徒学生「自身」が、学習目標や学習方略、メタ認知などを用いたりして、「自身」を方向づけたり調整したりする働きである。これは第II層「自己調整型」の主体的学習を指している。アクティブラーニングをここまで射程に入れて扱わないと、それを深い学習をはじめとする充実した学習にすることは難しい。
最後に、アクティブラーニングが第III層「人生型」の主体的な学習まで求めるものかと尋ねられれば、答えはNoであろう。私は、そこまで求めるものではないと考えている。もちろん、第III層で学ぶ生徒学生がいてもいい。たとえば「英検1級に合格する」「将来弁護士になる」といった中長期的な目標達成を目指して、学習や課題に取り組む姿がそうである。しかし、それをすべての生徒学生に適用して一般化するのは乱暴であろう。それは、「英検1級に合格する」「将来弁護士になる」という生徒学生に、物理の授業で力学の課題を与えて第III層で取り組みなさい、というようなものである。こうしてアクティブラーニングは、第I~II層の「課題依存型」「自己調整型」の主体的な学習に対応するものだと考えられる。
(2) 新学習指導要領の「主体的な学び」との関連
図5 主体的な学習に「主体的な学び」を位置づける
主体的な学び 定義 学ぶことに興味や関心を持ち、自己のキャリア形成の方向性と関連づけながら、見通しを持って粘り強く取り組み、自己の学習活動をふり返って次に繋げる学び。 |
定義を見ると、それは3要素で構成して定義されていることがわかる。主体的な学習の第I~III層を対応させて示すと、次のようになる。すなわち、
(1) 学ぶことに興味や関心を持ち(=課題依存型+自己調整型)
(2) 自己のキャリア形成の方向性と関連づけながら、見通しを持って粘り強く取り組み(=人生型+自己調整型)
(3)自己の学習活動をふり返って次に繋げる学び(=自己調整型)
である。
個人が対象にすすんで働きかければ、それで個人がそれを主体的な行為だと感じるとは限らない。アドバンストな理論的補足なので、興味のある読者だけ読んでいただければいい。
実は、人がある対象にすすんで働きかけた行為をもって、自身の行為主体性を感じ取るその間には、ある法則が働いていると考えられている。それは、自身の行為に結果が随伴すると認知することである(Metcalfe & Greene, 2007)。「随伴(性)contingency)」とは、先行事象の生起下で後続事象が生起する、その関係性を表す言葉である。
シノフジックら(Synofzik, Vosgerau, & Newen, 2008)は、随伴の認知を感覚と判断に分けて行為主体性の多層モデルを提示している(図6を参照)。そこでは行為主体性を、より基層にある対象化以前の非概念的な感覚運動レヴェルでの感覚と、より上層にある概念レヴェルでの判断の2層に分けて図式化している(詳しくは佐藤, 2012)。たとえば、感覚運動レヴェルで、ものを取ろうと手を伸ばす、その手がものをつかむ、という例を考えてみよう。そのとき、個人は手を伸ばすという自らの行為と、それに伴ってものをつかんだという実際の結果を随伴させて、この行為は自らがおこなったのだと感じる。ここに、「行為主体性の感覚」が認められる。
もっとも、人は一つ一つの行為にこのような行為主体性の感覚をその都度認めるわけではなく、そのようなことは自動化されて、ほとんど意識されないでいる。手を伸ばしたのが自分であって、その結果ものをつかめたなどといちいち感じていたのでは、人の日常生活はたいへんな情報処理に基づくものとなる。これを助けるのが、ある行為(運動)とそれに随伴して得られる感覚結果とを双方向的にシステム化(自動化)した内部モデルと呼ばれるものである。
私たちは、この内部モデルに基づいて、ものをつかむためには手を伸ばせばいい(結果から考えて行為するという意味で「逆モデル」と呼ぶ)という情報処理をおこない、逆に、手を伸ばしたからこそものをつかめたという情報処理(これが図6にある「順モデル」と呼ばれるものである)に基づいて、その行為の主体性(行為主体性)を感じ取ることができる。
図6 シノフジックらの行為主体性の多層モデル * 佐藤(2012)、図3-1-2を改変。
さて、私たちの日常生活における行為は、結果を随伴したと感じ取れるものばかりではない。ここで図6における概念的レヴェルの層が必要となる。たとえば、勉強を頑張って、試験で良い点を取ったという例を考えてみよう。「試験で良い点を取った」という結果が、「勉強を頑張った」という行為に随伴して得られたものだと判断されれば、人はこの行為に主体性を感じ取ることができる。
しかし、この行為と結果との関係性は、手を伸ばしてものをつかむといった感覚運動レヴェルの例ほど、単純には認められないことが多い。というのも、「試験で良い点を取った」のは、今回の試験問題が簡単だったからかもしれないし、前の晩よく眠れて頭がさえていて良いコンディションで試験にのぞめたからかもしれない。「試験で良い点を取った」という結果に随伴する行為あるいは前条件は、図6に示されるような「社会的手がかり」「文脈手がかり」に基づいて、またその行為にともなった「意図」も勘案して、反省的・概念的に判断(思考)されなければならないのである。先の感覚運動レヴェルでは、「行為主体性の感覚」と呼んだものを、この概念的レヴェルで「行為主体性の判断」と呼ぶのは、行為に随伴するものとして結果が産まれたか否かというその関係性を、反省的・概念的に対象化して思考し、まさに「判断」しなければならないからである。その判断が認められれば、行為(勉強を頑張った)が結果(試験で良い点を取った)を随伴したと認知され、そこに自らの行為主体性を認知することができる。しかし、その関係性を得るプロセスは、非常に反省的・概念的である。
このような例は、あの有名な「学習性無力感(learned helplessness)」にも認められる。セリグマンとマイヤー(Seligman & Maier, 1967)は、努力(行為)しても結果が随伴しないとき、人は努力してもどうせしかたがないという無力感を学習すると理解し、彼らはそれを学習性無力感と呼んだのであった。逆に、努力(行為)して結果が随伴するとき、自分の努力がその結果を産み出したのだと、言い換えれば、すすんで働きかけた行為が結果を産み出したのだと認知する(牧ら, 2003; 豊田, 2006)。
学習に見られる行為主体性の認知は、こうした事例からも理解されるように、概念的レヴェルでなされているものが多い。手を伸ばしてものをつかむといった運動感覚レヴェル以上の情報処理の作業の結果であることが多い。こうして、私たちが個人の意思をもって対象にすすんで働きかければ、それで個人がそれを主体的な行為だと認知できるわけでないことは理解されよう。主体的な学習の問題は、行為レヴェルにおける主体性のみならず、行為に結果が随伴するという認知レヴェルの主体性をも含み込んで理解されなければならないのである。
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